2020年08月03日

創造の病とは何か

レコード盤 預言者の星

 預言者たちのインスピレーションはどこから来るのか、それから、どうやったらその星をつかめるのか。 最後に、そういうお話をしておこう。 まずは、谷村新司が『昴』のインスピレーションを受けとったときのお話から。

『昴』誕生秘話
 『昴』の場合、メロディと歌詞が同時に、そして極めて鮮明にやってきました。 長いミュージシャン生活で、あとにも先にも『昴』ほど鮮明なイメージが一挙に降りてきた経験はありません。 「ん?『さらば昴よ』って何?」と歌詞の意味もわからないまま、手が自然に動いて歌詞を書き留めたのです。
『谷村新司の不思議すぎる話』P.17-18 第1章 『昴』が教えてくれたこと

 預言者たちは、自分で創っていながら、自分の作品の意味が分かっていない。 これは預言者たちに共通する現象で、中島みゆきが『時代』のインスピレーションを受けとったときのお話にも見られる。

『時代』誕生秘話
 書いた時には、たぶん何も考えていなかったと思います。 誰にでもあることでしょうけれど小さな子みたいにね。
 「口が勝手に歌うにまかせた」
 というような生まれ方をした曲なので、そういうのって、ほとんどの場合、書きとめようとしても間に合わないんですね。 なのでこれはごく稀なケースでした。 今でも、もしかしたら もっと長い曲だったのかもしれない、という気がする時もあります。 なんとも単純で漠然とした歌詞ですから、自分でも、何の意味だろうって考えながら、ずっと歌ってきました。

NHK『SONGS』第254回「時代」~中島みゆき

 どうやら創った本人は意味が分かっていないらしいけれど、いまの諸君なら分かるだろう。 『時代』は42歳の再会を果たして別れてきたときの心象風景を歌ったものだ。

【時代 - 中島みゆき(1975)】

 預言者たちに予言の解読能力がないのは、彼らは救世主ではないからだ。 預言者たちの役割は、予言を解読する能力を持つ救世主が現れる以前に小道を整えることにある。

【Blowing In The Wind(Live On TV, March 1963) - Bob Dylan(1963)】

 たとえばボブ・ディランの『Blowing In The Wind(邦題:風に吹かれて)』(1963)は、当時、社会の中の不公平や不正を告発するプロテスト・ソングとして受け取られたのだけれど、そんなことはない。 これは一番最初に創られた小道を整えるための予言だ。 これから預言書が編纂される旨の宣言である。

バベル語の詩32 ~ 新詩篇より ~
 人はあとどれだけ道を歩めば
 人間と呼べるのだろう?
 白い鳩はあとどれくらい海原を渡れば
 砂浜に休めるのだろう?
 砲弾はあと何度飛び交えば
 永久に射ち止むのだろう?

 友よ その答えは風に吹かれている
 あの風の歌に聴け

 すっかり削られて海に押し流されるまで
 山は何年 山で在り続けられるのだろう?
 自由を許されるまで
 人は何年 人で在り続けられるのだろう?
 何も見ないふりをしたままで
 人は何度 顔をそむけてうわべを飾るのだろう?

 友よ その答えは風に吹かれている
 あの風の歌に聴け

 本当に天国を見つけるまで
 人は何度 途方に暮れなければならないのだろう?
 人の嘆きに耳を傾けるまで
 目下のところ 幾つの耳を持たなければならないのだろう?
 あまりに多くの人がすでに死んでいると知るまで
 いくつの死が人を捉えるのだろう?

 友よ その答えは風に吹かれている
 あの風の歌に聴け

 ボブ・ディラン『Blowin' In The Wind』(1963)

 私には警告のようにも聞こえる。 どうやら、この歌を聞いて悔い改めた人は一人もいなかったみたいだけれど、こうした預言者たちの活躍にも、それなりに意味はあったと信じたい。 ノリとしては『新約聖書』にあるこんな感じだ。

 そのころ洗礼者ヨハネ来たりて、ユダヤの荒れ野にて教えを宣べ給う。
 「悔い改めよ、天の国は近づきたり」

 (マタイの福音書3章1-3節)

 また、預言者たちのインスピレーションは、その時代に、その予言を聞く耳を持つ魂が存在していなければ降りてこない。 そのため、中島みゆきが語っているように、「口が勝手に歌うにまかせた」という生まれ方をすることは、ごく稀にしか起こらないのだ。 たとえば、奥田民生の『さすらい』誕生秘話がいい例だろう。

『さすらい』誕生秘話
 たとえば『さすらい』という曲は、ジャーンって始まって、そこから途中があって、最後までズーッとできたの、その場で。 ズルズルズルって。 ちょっと、ホントに、こう、笑みがこぼれたよ、うん。
 だいたい曲なんて、最後まで出来上がってみないと、いいかどうか実は分かんなくて、自信がないわけよ。 ただ『さすらい』だけは、「これ、いいのできた!」って最初から思ったんですよ。
 まあ、それはでも、一曲しかないからね。 この30年間に。

NHK『SONGS』第436回 奥田民生

 奥田民生の『さすらい』は1998年の作品。 これは、当時、少年少女だった諸君に対する救世主からのメッセージで、将来の約束になっていた。 いまの諸君が聴けば意味が分かるだろう。 だって、君たちのために書かれた予言だものね。

【さすらい - 奥田民生(1998)】

 9と4分の3歳を迎えようとしている少年少女の中に、自分の運命を実現しようとしている意志の強い魂が存在していると、それに応えるように預言書が編纂される。 そのとき、予言のインスピレーションを受け取った預言者のひとりが奥田民生だったというわけだ。 この預言書の編纂は、その少年少女が19歳の厄年の三年間に入る直前―だから16-17歳くらい―まで続く傾向がある。 たぶん、小学校高学年から高校二年生くらいまでに吸収するものが人格形成に最も影響を与えるからだろう。 ただし、こういう現象が起こったのは、団塊世代、団塊ジュニア世代、ゆとり世代のときだけで、とりわけ団塊ジュニアのときは生まれたときからずっと編纂が続いていた。

【アポロ - ポルノグラフィティ(1999)】

 団塊世代のときの預言書は、仏教徒が朝のおつとめで読経する般若心経みたいなものだった。 たとえば『上を向いて歩こう』や『遠くへ行きたい』のように、短く概要をまとめたシンプルな預言書だったのだ。 それが、団塊ジュニアの時代になると、漫画や映画やアニメや小説を通して、より詳細な解説が加えられるようになり、愛と自由のバイブルが完成した。 そこにゆとり世代の諸君が生まれてきたわけである。

 大統領の名前なんてさ
 覚えなくてもね いいけれど
 せめて自分の信じてた夢ぐらいは
 どうにか覚えていて

 地下を巡る情報に
 振りまわされるのは
 ビジョンが曖昧なんデショウ
 頭ん中バグっちゃってさぁ

 僕らの生まれてくる もっともっと前にはもう
 アポロ計画はスタートしていたんだろ?
 本気で月に行こうって考えたんだろうね
 なんだか愛の理想みたいだね

 作詞:ハルイチ 作曲:AK.HOMMA.『アポロ』(1999)

 このポルノグラフィティの『アポロ』は、9と4分の3歳を迎えたゆとり世代に向けて発信されたメッセージだ。 1969年のアポロ11号の月面着陸成功以来、人類は希望のヴィジョンを失っていた。 そこで1999年という世紀末に、それに代わるヴィジョン―愛の理想の実現―が諸君に託されたのである。 この歌の背景には、ゆとり世代の諸君が成長した頃に、愛と自由のバイブルが団塊ジュニアから諸君に手渡されるという前提があった。 そこで団塊ジュニア世代のポルノグラフィティが、この歌のインスピレーションを受け取ったのではないかとおもう。

ザ・タイガース『花の首飾り』(1968)
 代表的カバーアルバム
 『UNITED COVER(2001)』
 井上陽水の『花の首飾り』、覚えてるかな?

 ただ諸君のときは、すでに愛と自由のバイブルが完成していたわけだから、流行歌よりも『新世紀エヴァンゲリオン』とか『千と千尋の神隠し』のような物語の形式で、将来経験することを疑似体験させるのが主流だった。 2001年に井上陽水が『UNITED COVER』を発表して、カヴァー・ブームを巻き起こしたのはそのためで、「これからはオールディーズを探しなさい」というのが諸君に対する指示だったのである。 おかげで、ゆとり世代は他の平成生まれの世代と比べて、昭和の流行歌に造詣(ぞうけい)が深いんじゃないかとおもう。 こういうオールディーズガイド現象は、私の属している団塊ジュニアのときにも起こっていて、1989年に発表されたPRINCESS PRINCESSというガールズバンドの『Diamonds』に見ることができる。

 針がおりる瞬間の 胸の鼓動焼きつけろ
 それは素敵なコレクション
 もっともっと並べたい

 作詞:中山加奈子 作曲:奥居香『Diamonds』(1989)

 これは一番にある歌詞で、「これからはレコード時代のものを聴け」という指示になっているのが分かるとおもう。 ちなみに、二番はこうなっていた。

 耳で溶けて流れ込む 媚薬たちを閉じ込めろ
 コインなんかじゃ売れない
 愛をくれてもあげない

 作詞:中山加奈子 作曲:奥居香『Diamonds』(1989)

 こういう作品が発表されたら、これ以降はロクなものが出なくなるよ、という予言になっているから、時代に背を向けてオールディーズを探すのが賢明なのである。 私も実際にそうした。 この『Diamonds』にも『紅い花』と同じ“時空飛ばし”が使われていて、オールディーズのダイアモンド級の価値が分かったときのタイムカプセルになっている。

 何にも知らない 子供に戻って
 やり直したい夜も たまにあるけど
 あの時感じた 気持ちは本物
 Ah 今 私を動かすのは
 ダイアモンド

 作詞:中山加奈子 作曲:奥居香『Diamonds』(1989)

 預言者の受け取るインスピレーションの中には、時代にあわせた指図書になっているものもあるのだ。

【Diamonds(1989) - PRINCESS PRINCESS(coverd by 青野美沙稀)】

 こんな風に、誰がいつ預言者になるのか分からない、というのが現実と言える。 ただ、そこには星の等級みたいなものがあって、星座のように鎮座する預言者もいれば、流れ星みたいに一瞬の輝きを放つ預言者もいることは確かだ。 たまに、誰かに発見されるまで埋もれちゃってるのもいたりする。 それに、これまで星座をつかんだのは、団塊世代とその弟や妹の世代が中心で、他の世代は流れ星にしかなれなかったような気がする。 つまり、いつの時代に生まれているのか、という星まわりみたいなものも無視できないのだ。 そこで次に、諸君の属しているゆとり世代が、どれほど預言者の星をつかむのにふさわしい世代であるのか、というお話をしてみたい。

レコード盤 ぼくたちの失敗

 創造の病のお話に入る前に、私たち団塊ジュニアの失敗について話しておかなければならないとおもう。 現在の団塊ジュニア世代は、残念ながら、いたずらに数が多いだけの“社会のお荷物”になってしまった。 というのは、かつて愛と自由のバイブルを手にした少年たちのうち、最後まで生き残ったのは私ひとりだからだ。

 そう、私が諸君の探していた最後のジェダイ―ルーク・スカイウォーカーである。 日本では第64代北斗神拳伝承者・ケンシロウと呼ばれている。 君たちがフォースに導かれ、私を探す旅に出発したのは2015年のことだったろうか。

【『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015)予告編】

 そのとき、諸君に時を告げた映画が『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』である。 公開は『新世紀エヴァンゲリオン』で人類補完計画が発動すると予言されていた2015年のことだった。 いちおう、日本で諸君のテーマソングが創られていたことは、ご存知かな?

【StaRt - Mrs. GREEN APPLE(2015)】

 諸君が私を見つけたいま、私が諸君の前で果たす役割は、すでに知っていることとおもう。 いま諸君の目の前には青い錠剤と赤い錠剤が差し出されている。 差し出しているのは私だ。

 This is your last chance. After this, there is no turning back. If you take the blue pill, the story ends, you wake up in your bed and believe whatever you want to believe. If you take the red pill, you stay in Wonderland and I show you how deep the rabbit hole goes. Remember. All I'm offering is the truth. Nothing more.
 (これが最後のチャンスだ。 ここから先は引き返すことができない。 青い錠剤を飲むなら…この物語は終わる。 君はベッドで目覚めてかまわない。 その後は自分の信じたいものを好きなだけ信じればいい。 赤い錠剤を飲むなら…君は不思議の国にとどまる。 私が不思議の国の深みを見せてやろう。 覚えておくがいい。 私が見せるものは、ずばり、真実だ。 それしかない)
モーフィアス『マトリックス』(1999)

 私がこのサイトをたちあげた目的は、諸君の中で死んだように眠っている“The One(選ばれし者)”を覚醒させることにある。 ただし諸君は、私にはそのきっかけを与えることしかできないことも知っているはずだ。

【Blue Pill or Red Pill - The Matrix(1999)】

 なぜなら諸君の中の“The One”を覚醒させられるのは砂漠の女だけだからだ。

 Neo..I'm not afraid anymore! The Oracle told me I would fall in love, and that man, the man that I loved, would be The One. So, you see, you can't be dead...you can't be... because I love you...you hear me? I love you...
 (ネオ…私はもう何も恐れない。 預言者オラクルは私が恋に落ちるだろうと言ったの。 そして、その人…私の愛することになる人が“The One(選ばれし者)”だと。 だから、わかるでしょ、あなたは死なない。絶対に。 だって私、あなたを愛してるもの。ねえ、聞こえてる? 愛してるわ…)
トリニティ『マトリックス』(1999)

 つまり、ネオとトリニティを引き合わせるモーフィアスの役割を果たすことが私の使命なのである。

【Trinity Believes - The Matrix(1999)】

 ちなみに、この『マトリックス』で描かれている覚醒の場面は『北斗の拳』の最終話にも描かれている。 砂漠の女が、自分が誰を愛しているのかを思い出したとき、諸君は自分の星をつかむことになる。 モーフィアスはケンシロウに、ネオとトリニティの関係性はバットとリンに例えられているのだ。

覚醒秘孔 ~新黙示録より~
覚醒秘孔1

 ケンシロウ:行くがいい。 オレの心はいつもおまえのそばにいる。

 リン:ケン、さようなら。 わ…わたしは今、やっと解りました。 誰を愛すべきかを。 蘇生秘孔3  リン:マミヤさん、バットはわたしの手でおくらせてください。 蘇生秘孔2  リン:い…生きてる! バットは生きてる! ケ…ケンが秘孔を! はああ、バット!! 蘇生秘孔4
作画:原哲夫 原作:武論尊『北斗の拳』(1983-1988) 第245話 さらば愛しき者たちよ…そして荒野へ…の巻

 諸君が少年少女時代に享受していた大衆文化が、どれほど優れたものであったか分かるだろうか。 それは諸君の果たすべき宿命を教えるものだったのである。

【『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017)ヨーダとルーク】

 現代を生きる少年少女は不幸だ。 愛と自由の意味をはきちがえた猿の惑星みたいな文化しかない時代に、いったい何を夢みることができるというのだろう。 今にしておもえば、団塊ジュニア世代が少年少女時代を過ごした頃は贅沢な時代だったのだとおもう。 そんな時代に愛と自由のバイブルを享受していた私たちは、いかにして人生を転落したのか。 その失敗を伝えることは諸君にとって最高の教師となるだろう。

 Pass on what you have learned. Strength, mastery, hmm…but weakness, folly, falure, also. Yes, failure most of all. The greatest teacher, failure is. Luke, we are what they grow beyond. That is the true burden of all masters.
 (そなたが学んだことを伝えるのじゃ。 それは強さや熟練の技かのう…いいや、弱さや愚かさ、それから失敗…そう、何より失敗を伝えるのじゃ。 失敗は最高の教師になる。 ルーク、我らは彼らが超えていくべき存在、それこそ全てのマスターが背負う真の重荷なのじゃよ)
ヨーダ『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017)

木星回帰37(Jupiter Return 37)
木星回帰37

 私たち団塊ジュニア世代は団塊世代の失敗の目撃者だった。 彼らがラジャスの幸福をつかんで完全に魂の旅をあきらめたのは、三度目の木星回帰が起こる37歳の厄年を迎えた1986年。 年功序列(学歴・年齢・勤続年数を考慮して役職や給与を上昇させる人事制度)と終身雇用(正社員として就職したら定年まで雇用を維持される制度)を前提とした社会政策の下で、自分を甘やかしすぎたのである。 そのとき発表されたのが小椋佳と堀内孝雄のコンビの『愛しき日々』だった。 団塊世代に対する皮肉になっているのが分かるとおもう。

バベル語の詩33 ~ 新詩篇より ~
 風の流れの激しさに
 告げる想いも揺れ惑う
 かたくなまでの ひとすじの道
 愚か者だと笑いますか
 もう少し時がゆるやかであったなら

 雲の切れ間に輝いて
 空しき願いまた浮かぶ
 ひたすら夜を 飛ぶ流れ星
 急ぐ命を笑いますか
 もう少し時が優しさを投げたなら

 いとしき日々の はかなさは
 消え残る夢 青春の影

 きまじめ過ぎた まっすぐな愛
 不器用者と笑いますか
 もう少し時がたおやかに過ぎたなら

 いとしき日々は ほろにがく
 一人夕陽に 浮かべる涙
 いとしき日々の はかなさは
 消え残る夢 青春の影

 作詞:小椋佳 作曲:堀内孝雄『愛しき日々』(1986)

 これは旧体制の江戸幕府にしがみついた藩主に忠誠を誓って、無駄に命を落とした会津藩のマヌケな少年たち「白虎隊」を描いた時代劇の主題歌だった。 「こういう馬鹿な大人たちに巻き添えを食ったら大変だ」と団塊世代の親と団塊ジュニア世代の自分たちを重ねて観ていたのである。

 いとしき日々の はかなさは
 消え残る夢 青春の影

 作詞:小椋佳 作曲:堀内孝雄『愛しき日々』(1986)

 “青春の影”というのは、日本のカウンターカルチャーのお約束で、17歳で出会った砂漠の女の影を意味する。 団塊世代は、ここではかなくも散ったのだった。

【愛しき日々 - 作詞:小椋佳/作曲:堀内孝雄(1986)】

 こういう団塊世代に対する皮肉の歌は、団塊ジュニア世代に対する贈り物と必ずセットで発表されるのが習わしだった。 その贈り物が美空ひばりの『愛燦燦』。 創ったのは『愛しき日々』の作詞を手がけた小椋佳で、同じく1986年の作品である。

バベル語の詩34 ~ 新詩篇より ~
 雨 潸々と この身に落ちて
 わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして
 人は哀しい 哀しいものですね
 それでも 過去達は
 優しく睫毛(まつげ)に憩(いこ)う
 人生って不思議なものですね

 風 散々と この身に荒れて
 思い通りにならない夢を 失くしたりして
 人はかよわい かよわいものですね
 それでも 未来達は
 人待ち顔してほほえむ
 人生って嬉しいものですね

 愛 燦々とこの身に降って
 心ひそかな嬉し涙を 流したりして
 人はかわいい かわいいものですね
 ああ 過去達は
 優しく睫毛(まつげ)に憩(いこ)う
 人生って不思議なものですね

 ああ 未来達は
 人待ち顔して微笑む
 人生って嬉しいものですね

 小椋佳『愛燦々』(1986)

 37歳の厄年を迎えても魂の旅から降りなかった人たちにとっては、そこが創造の病の入口になる。 やっかいなのは、42歳の大厄で砂漠の女との再会を果たすまで、しばらくは自分の夢を見失ったまま手探りしなければならないことだ。

 風 散々と この身に荒れて
 思い通りにならない夢を 失くしたりして
 人はかよわい かよわいものですね

 小椋佳『愛燦々』(1986)

 けれども、未来に愛が燦々と身に降りそそぐときがちゃんと待っているから、それまでがんばるんだよ。 そんな歌だ。

 それでも 未来達は
 人待ち顔してほほえむ
 人生って嬉しいものですね

 小椋佳『愛燦々』(1986)

 こういう『愛燦々』のような歌は、団塊ジュニアの道を照らすサーチライトの役割を持っていた。 私たちが37歳の厄年を迎えたとき、団塊世代と同じ轍(わだち)を踏まないように。

【愛燦燦 - 小椋佳(1986)】

作業中 この記事は現在作業中です。

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2020年06月29日

オーバー30とは何か5

レコード盤 人類補完計画

 森羅万象、二極一対(にきょくいっつい)--あらゆるものごとには対極の存在がある。 心がどこか欠けているのはそのせいだ。 この世のどこかに、あるべき残り半分の自分が存在すると考えたことはないだろうか?

『海辺のカフカ』にみる残り半分の自分
 「プラトンの『饗宴』に出てくるアリストパネスの話によれば、大昔の神話世界には三種類の人間がいた」と大島さんは言う。 「そのことは知ってる?」

 「知りません」と僕は言う。

 「昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していた。 つまり今の二人ぶんの素材でひとりの人間ができていたんだ。 それでみんな満足して、こともなく暮らしていた。 ところが神様が刃物を使って全員を半分に割ってしまった。 きれいにまっぷたつに。 その結果、世の中は男と女だけになり、人々はあるべき残りの半身をもとめて、右往左往しながら人生を送るようになった」

 「どうして神様はそんなことをしたんですか?」

 「人間を二つに割ること? さあ、どうしてかは僕も知らない。 神様のやることはだいたいにおいてよくわからないんだ。 怒りっぽいし、あまりになんというか、理想主義的な傾向があるしね。 想像するに、たぶんなにかの罰みたいなものだったんじゃないかな。 聖書にあるアダムとイブの楽園追放みたいにね」

 「原罪」と僕は言う。

村上春樹『海辺のカフカ』(2002) 第5章

 村上春樹の作品は文芸の形をした真理のゆえに注目に値する。 人々はあるべき残りの半身をもとめて、右往左往しながら人生を送る。 行方不明の残り半分を見つけられないかぎり、孤立したまま生きなければならない。 それは、たしかに原罪に違いない。 既存の宗教をあざ笑うわけではないけれど、その答えを示してくれた宗教があるだろうか?

 私の見たところでは、仏教の僧侶は経典をオウム返ししているだけだ。 言うまでもないことだが、彼らは心がどこか欠けているという事実を気にしてもいない。 私には、人々がその問題の解決を諦めているとしか思えなかった。 ただカウンターカルチャーだけは、その答えを示していたのである。

残り半分の自分の香り
 「タリファにいた時、地中海の東風が彼女の香りを運んできたのを思い出しながら、少年は井戸のそばに長い間すわっていた。 彼女の存在を知る前から、自分が彼女を愛していたことに彼は気づいた。 そして自分の彼女に対する愛があれば、この世のどんな宝物でもきっと発見できると知った」
パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 地球上のすべての人にはその人を待っている宝物がある。 人生は失った残り半分に再びめぐり逢うための素晴らしい冒険なのだ。 こうした概念はまったくの気のせいであり、それだけのことかもしれなかった。 そんなものを信じる根拠もなかった。 でも、もしそうじゃなかったら、人生はひどく退屈なものだった。 私は心の羅針盤にしたがうことにした。 そして、カウンターカルチャーは預言者の芸術であり、神からの贈り物であることを知ったのである。

サイモン&ガーファンクル『サウンド・オブ・サイレンス』(1964)
 収録アルバム
 『水曜の朝、午前3時(1964)』
 預言者の降臨を告げた一枚

 予言は壁に書かれている。 預言者たちの言葉は、ポール・サイモンの歌にあるように、地下鉄の壁や安アパートの玄関に書かれているのだ。 なんならユーチューブにだってある。 もしも諸君の原始脳の一部がその予言がどんなものかを知りたがっているなら、いかなる予兆もおろそかにはしない。 しかし“サウンド・オブ・サイレンス”をあえて破ろうとするものは一人もいないのが現実なのだ。

バベル語の詩7 ~ 新詩篇より ~
 やあ 闇の帝王君 私の古い友人よ
 貴様ともう一度話をつけるために私は来た
 未来のヴィジョンがそっと忍び寄り
 私が目覚める前に種を残していたから
 そのヴィジョンは私の脳裏に焼きついた
 いまだにそのまま残っているよ
 “The sound of silence”の世界にね

 私は息ぐるしい夢の中で
 玉石の敷かれた狭い小路を一人で歩いた
 街灯の光の輪の下で
 寒さと陰鬱さに襟を立てた
 ネオンの灯りが私の目を突き刺すと
 それは闇を引き裂き
 そこに“The sound of silence”の世界があった

 あからさまになった光景の中に
 私は幾千万の人々を見た
 人々は話すことなくしゃべり
 聞くこともなく耳を傾け
 声のしない歌を書いていたのだ
 あえて破ろうとするものは一人もいない
 その“The sound of silence”の世界を

 「愚か者たちよ」私は言った
 「君らは静寂が癌のように蔓延ることを知らない」
 「私の教える言葉を聞け」
 「私の差しのべる手を取れ」
 されど言葉は音もたてず雨粒のように落下した
 そして静寂の井戸の中にこだましたのさ

 やがて人々は頭を垂れて祈った
 自分たちの作ったネオンの神に
 予兆が警告の閃光を放ち
 言葉が形作られていった
 「預言者たちの言葉は 地下鉄の壁に
  安アパートの玄関に書かれている」
 予兆は“The sound of silence”の世界に囁いた

 ポール・サイモン『サウンド・オブ・サイレンス』(1964)

 サウンド・オブ・サイレンスが癌のように蔓延(はびこ)る以前は、真実の愛の歌が世界中に響き渡っていた。 ひとりの人間とその片割れは、生涯を通じて出会いと別れを繰り返している。 かつて女たちは、自分の元に戻ってくるために、男たちが遠くへ行かなければならないことを知っていた。 そういう“砂漠の女”の真実を伝える歌だ。

砂漠の女
 「ファティマは砂漠の女だ」と錬金術師が言った。 「彼女は、自分の元に戻ってくるために、男は遠くへ行かなければならないことを知っている。 それに、彼女はすでに自分の宝物を見つけた。 それはおまえのことだ。 だから、彼女はおまえにも、おまえが探しているものを見つけてほしいと思っているのだ」
パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 砂漠の女との最初の出会いは17歳。 しかし、あまりに未熟なために、誰もが愛に気づくことなく、記憶だけを残して通り過ぎてしまう。 ふたたび出会うのはずっと後のことだ。 その様子を描いたのがビートルズの『アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア』(1963)である。

バベル語の詩8 ~ 新詩篇より ~
 さて 彼女はちょうど十七歳だった
 僕が何を言おうとしているか分かるだろ?
 彼女の他に誰がいるかって気にさせるんだよ
 やれやれ これからどうやって
 他の女の子と踊れって言うんだよ なあ?
 そこに立っていた彼女と出会った時のことさ

 さて 彼女が僕の姿をみとめて
 僕もそうすることになった
 やがて 僕は気づいたんだ
 恋に落ちてしまったってね
 彼女にしたって 他の誰かとなんか
 踊れなくなってしまったんじゃないかな
 そこに立っていた彼女と出会った時のことさ

 さあ 僕の鼓動はドッキドキに鳴り出した
 二人を隔てる空間を乗り越えたとき
 僕はこの手で 彼女の手をつかんだんだ

 僕たちは夜どおし踊りながら
 互いに抱きしめあった
 こうして僕は 思いがけず
 彼女と恋に落ちた
 僕はもう他の誰とも踊らない
 そこに立っていた彼女と出会った時のことさ

 ジョン・レノン/ポール・マッカートニー『アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア』(1963)

 つまり、これは生涯にわたる出会いと別れの地図になっている。 これがビートルズのファースト・アルバムの一曲目だった。 僕が何を言おうとしているか分かるだろ? 行方不明の残り半分を探す旅のために、新たな聖典を書き始めた預言者が彼らなのである。

ザ・ビートルズ『アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア』(1963)
プリーズ・プリーズ・ミー  収録アルバム
 『プリーズ・プリーズ・ミー(1963)』
 新たな預言者の時代の幕開け

 恋が芽生えた瞬間にはなかなか気づかないものだが、もう恋に落ちてしまっていることはわりあい気づきやすい。 それが真理であると知るのは、男が42歳になってからだ。 二度目の出会いが天王星のハーフ・リターン(Uranus Half-Return)のときに起こる。 天王星は84年かけて太陽の周りをまわっていて、その半分が42年なのだ。 これはきわめて狭き門であり、99.999パーセントの人々が、この再会に失敗した事実を知る出来事を体験する。 それが42歳を“大厄”と呼ぶ理由なのだ。

天王星ハーフ・リターン(Uranus Half-Return)
天王星ハーフ・リターン

 もしもうまく再会に成功できたら、砂漠の女は、男を待っている宝物を探すようにひたすら促す。 そのため男は、せっかく彼女と再会できても、夢を実現するために旅立たなければならなくなる。 それがこの世の定めなのだ。

砂漠の女の愛
 男が自分の運命を追求するのを、愛は決して引き止めはしない。 おまえはそれを理解しなければならない。 もし男がその追求をあきらめるとしたら、それは真の愛―宇宙のことばを語る愛―ではないからだ。
パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 英語圏の預言者たちは、この場面を巧みに描いた。 なかでもイギリスのロックバンド・バッドフィンガーの『ウィズアウト・ユー』(1970)が秀逸だったとおもう。

バベル語の詩9 ~ 新詩篇より ~
 今夜のことを忘れるなんてありえないよ
 それから去りゆく君の面影もね
 でも僕はこう思うのさ
 これは物語の一幕なんだって

 君はずっと笑っていたね
 でも瞳は悲しみをたたえていた
 たしかにそう見えたんだ

 きっと明日のことを忘れることもないよ
 悲しみと向き合うその時をね
 君がすぐそばにいたのに
 手放さなくちゃいけなかった

 今はこうするのがちょうどいいだろう
 君に知ってほしいことがあるんだ
 君が知っておくべきことさ

 僕は生きていけない
 もしも君のいない人生なら
 僕には生きていけないよ
 これ以上は言いようがないかな

 ピート・ハム/トム・エヴァンズ『ウィズアウト・ユー』(1970)

 これが英語圏で起こったカウンターカルチャー最後の真実の愛の歌だった。 シングルとして発表されたわけではなかったので、当初はアルバムの中の一曲として埋もれていたそうである。

バッドフィンガー『ウィズアウト・ユー』(1970)
ノー・ダイス  収録アルバム
 『ノー・ダイス(1970)』
 カウンターカルチャー最後の祈り

 発掘したのはアメリカのハリー・ニルソン。 この人は、カウンターカルチャーの“埋もれ歌”を発掘していた預言者で、1970年以降のサウンド・オブ・サイレンスの世界の大衆に、分かりやすいアレンジを施して楽曲を紹介した。 預言者の世界には、いろいろな役割分担があるらしい。

【Without You- Harry Nilsson(1971)】

 おそらく世界で最も有名なマライア・キャリーのカバーもハリー・ニルソンのアレンジがベースになっている。 マライア・キャリーは、言ってみれば、シンガーとして降臨した預言者だ。 彼女のようなシンガーは歌の真実を伝える能力を持っている。 ただし、預言者たちは、予言を解読する能力までは持ち合わせていないので、歌の意味はさっぱり分かっていない。 歌っている本人も含めて、それを聞く聴衆の誰ひとりとして意味が分かっていないのに、どういうわけか拍手と歓声が起こる。 これが聞くことなく耳を傾けるという現象--“サウンド・オブ・サイレンス”の世界なのだ。

【Without You- Mariah Carey(1994)】

 ハリー・ニルソンの発掘作業をもう一つ紹介しておこう。 彼の重要なカバー曲の一つに、『Everybody's Talkin'(邦題:うわさの男)』がある。

フレッド・ニール『Everybody's Talkin'』(1966)
Fred Neil  収録アルバム
 『Fred Neil(1966)』
 誰が名づけたか私には埋もれ歌うたいの影がある…

 元歌はアメリカのフレッド・ニールが1966年に発表したアルバムの中の一曲。 それをハリー・ニルソンが1968年にシングルとしてカバーして、『真夜中のカウボーイ』(1969)という映画の主題歌になったことで、はじめて世に知られるところとなった。 誰が名づけたか私には埋もれ歌うたいの影がある…そんな預言者もいるらしい。

バベル語の詩10 ~ 新詩篇より ~
 みんなが僕のうわさをしてる
 僕にはこれっぽっちも聞こえちゃいない
 ただ頭の中でこだまするだけさ

 みんなが立ち止まってジロジロみてる
 僕にはあいつらの顔なんか見えやしない
 ただその眼に宿る影がみえるだけさ

 太陽が照りつける土地に向かってる
 土砂降りの雨を抜けてね
 僕の肌にあう気候の土地に向かってるんだ

 北東の風を帆に受けて
 夏のそよ風の中を漕ぎだすのさ
 水切り石のように海の上を飛び跳ねて

 僕の愛を残したまま君を置き去りにはしない
 そんなことは絶対にしないさ

 フレッド・ニール『Everybody's Talkin'』(1966)

 フレッド・ニールは、地鳴りのように響くバリトンボイスが武器のフォークシンガーで、元歌には敷居の高いところがある。 ハリー・ニルソンのカバーでは、それがずいぶん親しみやすくなっているのが分かるとおもう。 作詞家、作曲家、編曲家、歌手、そして聞く耳を持つ聴衆。 その条件がすべてそろわないとカウンターカルチャーの奇跡は生まれないのだ。

【Everybody's Talkin'-Harry Nilsson(1968)】

 こうした愛の歌が流れていた時代の終焉を告げたのがカーペンターズの『イエスタディ・ワンス・モア』(1973)だった。

バベル語の詩11 ~ 新詩篇より ~
 私がまだ若かった頃 ラジオに耳を傾けていた
 お気に入りの歌がかかるのを待ち受けながら
 その歌がかかると一緒に口ずさんだものだった
 それが私の喜びだった

 そんな幸せな時代は それほど遠くない昔のこと
 どれほど不思議に思ったことか
 あの歌は一体どこへ行ってしまったのだろうかと
 でも歌はふたたび帰ってくる
 まるで長らく音信不通だった友だちのように
 私が掛け値なしに愛したすべての歌たちが…

 どのシャララも どのウォウオウも まだ輝きを失っていない
 どの詩人たちも いつまでも胸の中で語りかけている
 彼らが歌い始める なんて素敵なことだろう

 彼が彼女を振り切って行ってしまう場面では
 思わず涙がこぼれ落ちる
 ちょうど かつてそうだったように
 それはイエスタデイ・ワンス・モア

 どんな歳月を過ごしてきたかを振り返ってみれば
 私はそれほど悪くない時代を生きてきた
 でも今日は どちらかといえば悲しい時代にみえる
 あまりに変わってしまった

 あの頃 私が口ずさみ
 言葉のひとつひとつをかみしめたのは愛の歌だった
 そうした古いサウンドは今なお耳に心地よい
 変わってしまった歳月を融かし去ってくれるから

 どのシャララも どのウォウオウも まだ輝きを失っていない
 どの詩人たちも いつまでも胸の中で語りかけている
 彼らが歌い始める なんて素敵なことだろう

 すべてのとっておきの思い出がくっきりとよみがえってくる
 そのいくつかはいっそうの涙を誘う
 ちょうど かつてそうだったように
 それはイエスタデイ・ワンス・モア

 詞:ジョン・ベティス 曲:リチャード・カーペンター『イエスタディ・ワンス・モア』(1973)

 この歌を収録したカーペンターズの『ナウ・アンド・ゼン』(1973)の発表をもって、英語圏のカウンターカルチャーは幕引きを迎え、ロックは死んだ。 それから後は、声のしない歌を書く人たちが時代を席巻していくことになる。

カーペンターズ『イエスタデイ・ワンス・モア』(1973)
ナウ・アンド・ゼン  収録アルバム
 『ナウ・アンド・ゼン(1973)』
 あの日、あの頃は、今どこに…

 サウンド・オブ・サイレンスが世の中に蔓延りはじめたのは1969年夏。 ゲイの暴動“ストーンウォールの反乱”が起こり、アポロ11号が月面着陸に成功して、史上最大のロックフェスティバル“ウッドストック”が開催されたときからだ。 それぞれ、愛の探求がないがしろにされ、地球の外にフロンティアを求めても意味がなく、誰もが自由の意味をはき違えている事実を象徴する出来事だった。 そして1976年、もう後戻りできないところまで来たことを、アメリカのイーグルスが『ホテルカリフォルニア』で描くことになる。

バベル語の詩12 ~ 新詩篇より ~
 暗い砂漠のハイウェイ 冷たい風が髪をなでる
 コリタスのあたたかな香りがあたりに立ち込め
 ずっと遠くの彼方にちらちら輝く灯りが見えた
 頭が重くなり 視界はぼやけ
 夜を過ごすために立ち寄らなければならなくなった

 彼女が入り口に立ち 礼拝の鐘が聞こえた
 僕は自分に問いかける
 「ここはまるで天国みたいで地獄のようでもある」

 それから彼女は蝋燭を灯して案内をしてくれた
 通廊を降りていくと声がしてきて
 僕にはこんな風に聞こえたんだ

 ようこそ ホテルカリフォルニアへ
 こんなに素敵な立地と外観
 当ホテルでは たくさんのお部屋をご用意して
 年中 あなたをお待ちしております

 彼女の頭は ティファニー狂いでメルセデス中毒
 お友達と呼んでるイケてる彼氏がたくさんいた
 人々は中庭で たっぷりと夏の汗をかいて踊る
 あるものは思い出すために あるものは忘れるために

 それから僕は支配人を呼んだ
 「ワインを持ってきてくれないか」
 「そのようなお酒(スピリット)は…」彼は言った
 「1969年以降こちらにはご用意しておりません」

 あの声は はるか遠くからいまだに聞こえている
 真夜中に人々を目覚めさせて
 こんな風に聞こえてくるんだ

 ようこそ ホテルカリフォルニアへ
 こんなに素敵な立地と外観
 当ホテルを みなさま心から楽しんでいらっしゃいます
 なんて素敵なサプライズ アリバイならおまかせあれ

 天井を飾る鏡 氷で冷えたピンクのシャンパン
 「わたしたちはみんなここの囚人なのよ」彼女は言った
 「自分たちで仕組んでそうしたんだけどね」

 ホテルの主の寝室に みんなが饗宴のために集まった
 鋼鉄のナイフで突き刺すのだけれど
 そのケダモノを殺すことはとてもかなわない

 最後に覚えているのは ドアに向かって走っていたこと
 自分の元いた場所に戻る通路を見つけなければならなかった

 「落ち着いてください」夜警は言った
 「わたしたちは受け入れなければならないのです」
 「あなたはいつでも好きなときにチェックアウトしてかまいません」
 「でもここを離れることはどのみちできないんですよ」

 ドン・フェルダー/グレン・フライ/ドン・ヘンリー『ホテルカリフォルニア』(1976)

 この歌詞のなかで、とりわけ当時話題になったのは1969年についての箇所だった。

 We haven't had that spirit here since nineteen sixty nine…
 (そのようなお酒(スピリット)は、1969年以降こちらにはご用意しておりません…)

 1969年、人類は新時代のヴィジョンを失った。 希望を失くした人々は、みんなでホテルカリフォルニアの囚人になったのである。 「自分たちで仕組んでそうしたんだけどね」。 あれから約50年、愛と自由に背を向けた私たちは、フロンティアを目指すことを止め、いまだに幼稚なアリバイ(言い訳)を繰り返しているのだ。

イーグルス『ホテルカリフォルニア』(1976)
ホテルカリフォルニア  収録アルバム
 『ホテルカリフォルニア(1976)』
 「聴いたことのない人は人生損してる」と言っていいくらいの名盤

 こうした1969年の世相を切り取った映画が『イージー・ライダー』(1969)だった。 『イージー・ライダー』は「アメリカン・ニューシネマ(American New Wave)」と呼ばれる反体制的な映画作品群の一つで、映画が社会的メッセージを持っていた時代の遺物である。 「二人の若者が、麻薬の密売で大金を儲け、ハーレーに乗ってアメリカを旅する」というだけの作品。 ただ「誰がカウンターカルチャーを殺したのか?」--この映画はその答えを描いていた。

 Oh, yeah, they gonna talk to you and talk to you and talk to you…about individual freedom. But they see a free individual, it’s gonna scare ‘em.
 (そうさ、誰もが個人の自由を語る。でもあいつらは本当に自由な奴を見ると怖気づいてしまうんだ)

 1969年はカウンターカルチャーを享受していた世代が“オーバー30の壁”に直面しはじめた年だった。 この年を境に、ひとりまたひとりとオールドタイプに転落していったのである。 そんな口先だけで愛と自由を語りはじめた人たちの前で体験するのが、このヤマアラシのジレンマだ。 主人公の二人の若者は、同時代の誰とも分かり合えない孤独を体験していく。

 とくに目的地があるわけでもなく、気ままにフロンティアを目指す。 そうやって本当の自由を見つけようとしたニュータイプの若者二人は、あっけない最期を遂げる。

 カウンターカルチャーを殺した犯人は、本当に自由な奴を見ると怖気づいてしまう人たち。 すなわち口先だけで生きているオールドタイプだった。 空地のすみに倒れたバイク  そういうわけで、この自由の象徴であるハーレーは、1969年以来、道路脇の空地にずっと放置されたままになっているのだ。

バベル語の詩13 ~ 新詩篇より ~
 おまえのエンジンをかけな
 ハイウェイに繰り出そうぜ
 見たこともないものを探すんだ
 何が俺たちを待ち受けていようとな

 そうだろ相棒 やってやろうぜ
 世界中に愛をもたらすのさ
 弾丸を空になるまで一気にぶっ放して
 宇宙に炸裂させてやるんだ

 セクシーな煙と稲光
 ヘヴィー・メタルの轟音がたまらない
 風と競争してる
 今のこの感じがたまらないのさ

 真の野生児みたいに
 ワイルドに生きるために俺たちは生まれてきた
 どんな高みにだって行けるさ
 死んだように生きるわけにはいかねえ
 ワイルドに生きるために生まれてきたんだ

 マーズ・ボンファイヤー『Born To Be Wild』(1968)

 この『イージー・ライダー』の劇中に流れていたステッペンウルフの『Born To Be Wild』は、あまりに有名なロックの代表曲なのだけれど、このとおりワイルドに生きることは代償をともなう。 その自由の代償を背負おうとするタフな若者がいなくなったというのが、ロックのスピリットが死んだ理由だった。

ステッペンウルフ『Born To Be Wild』(1968)
「イージー・ライダー」サウンドトラック  収録アルバム
 『「イージー・ライダー」サウンドトラック(1969)』
 死んだように生きるわけにはいかねえ

 オーバー30の壁を越えられなかったオールドタイプは、どちらかというと類人猿に近い。 愛と自由の探求をやめた人間は、万物の霊長としては死んだも同然だからだ。 そのためカウンターカルチャーを享受していたヒッピーやフラワーチルドレンたちは創造主から見限られることになる。 あいつらは人生を、なにより、予言をなめすぎた。

【Star Wars: Episode IV A New Hope - George Lucas(1977)】

 そこで1976年の『ホテルカリフォルニア』発表後に公開されたのが『スター・ウォーズ』シリーズの第一作目「 エピソード4/新たなる希望」だった。 その1977年からは、次の世代に人類の希望が託されることになる。 わけても私の世代と諸君の世代がその中心だ。 スター・ウォーズの第一作目がテレビで初放送されたのは公開から6年後の1983年10月。 当時はビデオが普及する以前の時代だったから、映画のテレビ放送をみんなで楽しみにしていた。 放送日の数日前からお祭り騒ぎだったのを覚えている。 それは私が9と4分の3歳を迎えようとしていたときのことで、この映画を最初に観たときの衝撃は忘れられない。 目の前に新たな扉が開かれたような気分だった。 諸君が9と4分の3歳を迎えようとしていたときの作品は『マトリックス』(1999)だったけれど、それに近い衝撃だと言えば伝わるだろうか。

【The Neverending Story - Wolfgang Petersen(1984)】

 その後の1984年に満を持して公開された映画が『ネバーエンディングストーリー』だった。 原作はドイツのミヒャエル・エンデの児童文学。 日本語訳では『果てしない物語』となっている。 これは少年が本を読み進めるうちに幻想世界と現実世界の境目がなくなってしまうお話。 そういうことは、物語の中だけではなく、現実に起こることがある。 なぜなら、この地上には一つの偉大な真理があるからだ。 ある子供が自分に定められた運命を実現しようとするとき、それをどのように実現すべきかを示す預言書が、そのたった一人の子供のために創造されることがある。 それがバベル語で書かれた本--“妙法蓮華経”なのだ。

妙法蓮華経の真実
 「その力は否定的なもののように見えるが、実際は、運命をどのように実現すべきかを、おまえに示してくれる。 そしておまえの魂と意志を準備させる。 この地上には一つの偉大な真理があるからだ。 つまり、おまえが誰であろうと、何をしていようと、おまえが何かを本当にやりたいと思う時は、その望みは宇宙から生まれる。 それが地球におけるおまえの使命なのだよ」
 「したいと思うことが、旅行しかないという時もですか? 呉服屋の娘と結婚したいという望みでもですか?」
 「そうだ。 人生の宝物を探したいという望みですら、そうなのだ。 『大いなる魂』は人々の幸せによってはぐくまれる。 そして、不幸、羨望、嫉妬によってもはぐくまれる。 自分の運命を実現することが人間の唯一の責任なのだ。 すべてのものは一つなのだよ。 おまえが何かを望む時には、宇宙全体が協力して、それを実現できるように助けてくれる」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 この映画は、自分のために書かれた預言書を手にした子供たちが、いずれ体験することを教える妙法蓮華経。 当時、少年少女だった子供たちに、魂と意志を準備させるため、あらかじめ疑似体験させることを目的として創造された作品なのだ。 私は、この映画が公開された1984年から“果てしない物語”の一部になっている。

アウリン

 そして、すでに諸君も、“果てしない物語”の中にいる。 この物語に君たちを連れ込んだ映画は『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)だ。 ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』とJ.K.ローリングの『ハリー・ポッターと賢者の石』には、見えない“アウリン(Auryn)”がついている。 それは白蛇と黒蛇がお互いの尻尾を噛んで輪のようになっているシンボルだ。 それが象徴するものは幻想世界と現実世界のバランス。 その裏には「汝の欲することをなせ」と書いてあり、アウリンのついた本は、果てしない物語に入り込んだ少年少女を彼らの実現するべき運命に導いてくれる。

【The Neverending Story - Wolfgang Petersen(1984)】

 また、この『ネバーエンディングストーリー』では、サウンド・オブ・サイレンスのことを“虚無(きょむ)[the Nothing]”と表現する。 現在、一般にアーティストと呼ばれている人たちは、その虚無に仕えていて、この映画では彼らがやっていることをグルモクという名の魔物が代弁している。

 Because people have begun to lose their hopes and forget their dreams. So, the Nothing grows stronger. It's the emptiness that's left...it is like a despair, destroying this world. And I have been trying to help it. Because people who have no hopes are easy to control.
 (人間は希望を失って夢をみなくなった。 だから虚無が勢力を増してきたんだ。 虚無とは夢を失くした虚しさのことさ。 この世界を破壊しているのは、その絶望みたいなものだ。 そして俺はその虚無に仕えている。 希望を失った人間は簡単に操れるからな)

 人間の心はどこか欠けている。 それは行方不明の残り半分のせいだ。 でも、自由の代償を厭(いと)わず、その半分と再会する運命の旅に出て、それを果たしたとき、その半分が愛を教えてくれる。 ずっと探していた夢の景色もそこに見つかる。 その希望を失った人間は、虚無に仕える人たちに簡単に操られる。 現代社会に蔓延している映画、小説、演劇、音楽を振り返ってみるといい。 身の毛もよだつ虚無の芸術ばかりだ。

【The Neverending Story - Wolfgang Petersen(1984)】

 『ネバーエンディングストーリー』は、CGが発達する以前の作品だから、映像自体は現代の映画のほうが優れているかもしれない。 それでも、いまだにその輝きを失っていないのは、たぶん、この映画に出演した子役たちの迫真の演技のおかげだとおもう。 諸君もいつか、この映画の主人公バスチアンとまったく同じ疑問を抱くときが来る。

 “He doesn't understand that he's the one who has the power of it. He simply can't imagine that one little boy could be that important.”
 (彼は自分が虚無を止める力を持っていることが分かっていないの。 小さな人間の子供がそんなに重要な存在だなんて想像すらできないのよ)
 “Is it really me?”
 (それって本当に僕のこと?)

 この世に自分のために書かれた預言書が存在していて、その予言の中に自分のやるべきことが書かれているだなんて、普通は想像すらできないものだ。 しかも、その預言書は、映画や小説や漫画やアニメや流行歌だときている。 これは、果てしない物語の一部になった少年が夢に呼ばれるとき、誰もが抱くことになる疑問なのだ。

 “But it's only a story; it's not real. It's only a story!”
 (でも、これはただの物語だ。現実じゃない。ただの物語じゃないか!)
 “But I can't. I have to keep my feet on the ground!”
 (でも、できないよ。ちゃんと地に足をつけなくちゃいけないんだ!)

 この映画は、かつて少年だったわれわれが夢に呼ばれるとき、その背中を押してくれる力を持っている。 だから、その時がきたら、この映画のことを思い出してほしい。 われわれの運命を導いている“果てしない物語”の書き手は男神じゃない。 女神だ。 日本語では“幼心の君(おさなごころのきみ)”と呼ばれている。 その時、彼女の声は、こんな風に聞こえてくるだろう。

幼心の君

 “Why don't you do what you dream Bastion? Call my name. Bastian! Please! Save us!”
 (バスチアン、どうして夢で見たようにやってくれないの? 私の名前を呼んで。バスチアン、お願い。私たちを助けて!)

 それから、イギリスのリマールが歌った映画の主題歌もひとつの予言になっていた。 私にとっては、あらゆる意味で、すべての探求のはじまりが1984年にあったのである。

バベル語の詩14 ~ 新詩篇より ~
 振り返って
 あなたの目に見えているものをよく見てごらん
 彼女の表情は あなたの夢の鏡になっている

 私はいたるところでかくれんぼをしています
 行間にひそんでいるのが私です
 そのページの上に書かれていることが
 果てしない物語の答えなのです

 星に手を伸ばして 物語の世界を飛びまわり
 夢を夢みると
 あなたの目に見えているとおりになるでしょう

 秘密を守護する言葉のリズムが
 雲の向こうに広がっています
 そこにかかる虹のうえにあるものが
 果てしない物語の答えなのです

 彼女が去り行くことを 心配したりしないで
 ほらあなたの手の中に 新たな日が生まれてる

 作詞:キース・フォーシイ 作曲:ジョルジオ・モロダー『The Never Ending Story』(1984)

 これは女神様の声をそのまま歌にしたものだ。 天王星ハーフ・リターンにおける二度目の再会後の助言になっていることが分かるとおもう。 バベル語を知覚する能力が覚醒して、自分のために書かれた預言書の意味を知るのは、その時なのだ。 自分の生まれてきた意味も、自分に課せられた宿命も、そのすべてを女神様がそこに書いてくれている。

目に見えているもの
 この世が存在しているということは、ただ単に、完全なる世界が存在するという証拠にすぎないのだ。 目に見えているものを通して、人間が霊的な教えと神の知恵のすばらしさを理解するために、神はこの世界を作られたのだ。 それが、行動を通して学ぶとわしが言ったことなのだよ。
パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 目に見えているもの--それさえあれば、たどり着けない答えはない。 神の創造の秘密を知るための通路は、この世のいたるところでかくれんぼをしているのだ。

リマール『The Never Ending Story』(1984)
ネバーエンディング・ストーリーサウンドトラック  収録アルバム
 『「ネバーエンディング・ストーリー」サウンドトラック(1984)』
 完璧な映画は主題歌まで完璧になる

 イギリスとアメリカを震源地としてはじまったカウンター・カルチャーは、1976-1977年を転換期として、次世代の少年少女向けのファンタジー映画やポップ・ミュージックに路線変更がなされた。 それはそれで面白い時代だったのだけれど、1985年の『USA For Africa - We Are the World』を最後に、その時代も終わりを告げた。 虚無が世界の隅々まで蔓延して声のしない歌しか聞こえてこなくなったのである。 私の知るかぎり、これ以降、イギリスとアメリカから日本に届いた音楽の中に声のする歌はない。

バベル語の詩15 ~ 新詩篇より ~
 あの呼び声に気づく時がくる
 世界が一つみたいになるべき時だ
 人々は死にかけていて
 そろそろ手渡すべき時がきている
 何よりも素敵な贈り物を

 僕たちはもう日々をごまかせない
 どこかの誰かが変化を起こしてくれるなんて
 僕らはみな神の偉大な家族の一員で
 君だって知っている真実とは
 愛こそがすべてということじゃないか

 We are the world, we are the children
 僕らは輝ける日々を創り出すために選ばれた
 だから与えはじめてみないか
 僕らが実践している一つの選択がある
 僕らは自分の生き方を見失っていないよね
 それが間違いなく より良い日々を創り出すのさ
 君と僕とではじめようよ

 君の心からの想いを伝えてみるといい
 そうすれば彼らは自分の仲間がいることに気づく
 彼らはより力強く自由に生きていくことだろう
 神は石をパンに変えることで存在を知らせてくれた
 だから僕らもみな救いの手を差し伸べるべきなんだ

 君が疲れ果てたとき
 希望なんかどこにもないようにみえることもある
 それでもただ信じていれば
 僕らが倒れることなんかないのさ
 気づいてよ 変化は起こらざるをえないってことに
 僕らが一つになって起ちあがるときにはね

 マイケル・ジャクソン/ライオネル・リッチー『USA For Africa - We Are the World』(1985)

 この『USA For Africa - We Are the World』は、アフリカ難民飢餓救済のチャリティー・ソングとして創られたものなのだけれど、中身はそれとはまったく関係がない。 訳出してみると、当時の子供たちが成長して、愛と自由の意味を知り、虚無を止めようとするときのテーマソングになっていることが分かるとおもう。 これはいわば、愛と自由の文化の終焉の時代に、カウンターカルチャーの夢を次世代の子供たちに託した歌になっているのだ。 このアメリカから発信された最後の夢を引き継ぐのが人類補完計画なのである。

【We Are The World - Michael Jackson/Lionel Richie(1985)】

レコード盤 冬―春夏秋

 森羅万象は二極一対だから、当然、イギリスとアメリカ発のカウンターカルチャーには欠けている部分がある。 そこを補うパズルのピースが日本の大衆文化にあった。

【上を向いて歩こう - 永六輔/中村八大(1961)】

 その日本のカウンターカルチャーは、坂本九の『上を向いて歩こう』が発表された1961年からゆるやかに始まったと言えるだろう。

バベル語の詩16 ~ 新詩篇より ~
 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 思い出す 春の日
 一人ぽっちの夜

 上を向いて歩こう
 にじんだ星をかぞえて
 思い出す 夏の日
 一人ぽっちの夜

 幸せは 雲の上に
 幸せは 空の上に

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く
 一人ぽっちの夜

 思い出す 秋の日
 一人ぽっちの夜

 悲しみは 星のかげに
 悲しみは 月のかげに

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く
 一人ぽっちの夜

 作詞:永六輔 作曲:中村八大『上を向いて歩こう』(1961)

 この『上を向いて歩こう』は、時節としては天王星ハーフ・リターンにおける再会の後を描いているのだけれど、日本のカウンターカルチャーに特有なのは、その過程を詳細に描いていたことだ。 再会と別れの過程を春と夏と秋の季節に分けて、それぞれに意味を持たせたのである。 各季節の意味は『上を向いて歩こう』以降に発表された流行歌で説明されることになった。 したがって、そのすべてがこの歌からはじまったといえる。 この歌の主人公がいる季節は冬。 それは再会に至るまでの過程すべてが長い冬だからだ。 日本のカウンターカルチャーの定義では、人生は長い冬の繰り返しなのである。

水原弘『黄昏のビギン』(1959)
すたんだーど・なんばー  代表的カバーアルバム
 『すたんだーど・なんばー(1991)』
 ちあきなおみの“埋もれ歌”発掘作業。 1991年というところが重要。

 『上を向いて歩こう』を創った永六輔と中村八大のコンビは、出会いと別れを繰り返す男女のゴールも描いていて、それが水原弘の『黄昏のビギン』だった。 1959年にシングルB面として発表されたため、“埋もれ歌”として忘れ去られていたのだけれど、1991年にちあきなおみが発掘して世に知られるところとなった。 この最終ゴールを描いた作品は日本にしかない。

バベル語の詩17 ~ 新詩篇より ~
 雨に濡れてた たそがれの街
 あなたと逢った 初めての夜
 ふたりの肩に 銀色の雨
 あなたの唇 濡れていたっけ
 傘もささずに僕たちは
 歩きつづけた雨の中
 あのネオンがぼやけてた

 雨がやんでた たそがれの街
 あなたの瞳に うつる星かげ

 夕空晴れた たそがれの街
 あなたの瞳 夜にうるんで
 濡れたブラウス 胸元に
 雨のしずくか ネックレス
 こきざみに ふるえてた

 二人だけの たそがれの街
 並木の陰の 初めてのキス
 初めてのキス

 作詞:永六輔 作曲:中村八大『黄昏のビギン』(1959)

 二つに分かれていた魂は最後の最後に初めてのキスをかわす。 それまではずっと雨が降っているというのは、温暖湿潤気候の日本ならではの発想で、こういうしっとりとした感じは、空気の違う地域に住んでいるイギリス人やアメリカ人には表現できないだろう。 井上陽水の『傘がない』(1972)も、この雨を歌ったもので、傘もささずに歩きつづけるのが日本男児と大和なでしこの伝統作法なのである。

【傘がない - 井上陽水(1972)】

 こうした真実の愛の歌が日本に響き渡っていた期間は1990年まで。 イギリスとアメリカの場合とは違って比較的長かった。 男女の出会いと別れの過程を丁寧に描くには、それくらいの時間が必要だったのである。 その締めくくりに、日本で“埋もれ歌”を発掘するハリー・ニルソンの役割を果たしたのが―ちあきなおみ。 終焉を告げるカーペンターズの役割を果たしたのも―ちあきなおみだった。 その理由は単純で、当時の日本には、歌の真実を伝えられる歌手は彼女しかいなかったからだ。 『イエスタデイ・ワンス・モア』に相当する心象風景は『紅い花』という歌になっている。

バベル語の詩18 ~ 新詩篇より ~
 昨日の夢を 追いかけて
 今夜もひとり ざわめきに遊ぶ
 昔の自分が なつかしくなり
 酒をあおる

 騒いで飲んで いるうちに
 こんなにはやく 時は過ぎるのか
 琥珀のグラスに 浮かんで消える
 虹色の夢

 紅い花
 想いをこめて ささげた恋唄
 あの日 あの頃は 今どこに
 いつか消えた 夢ひとつ

 悩んだあとの 苦笑い
 くやんでみても 時は戻らない
 疲れた自分が 愛しくなって
 酒にうたう

 いつしか外は 雨の音
 乾いた胸が 想い出に濡れて
 灯りがチラチラ 歪んでうつる
 あの日のように

 紅い花
 踏みにじられて 流れた恋唄
 あの日 あの頃は 今どこに
 いつか消えた 影ひとつ

 紅い花
 暗闇の中 むなしい恋唄
 あの日 あの頃は 今どこに
 今日も消える 夢ひとつ

 作詞:松原史明 作曲:杉本真人『紅い花』(1991)

 この歌の面白いところは、『The NeverEnding Story』や『USA For Africa - We Are the World』でも使われている“時空飛ばし”という技巧。 つまり、その時がこないと意味を理解できないタイムカプセルになっていることだ。

 あなたを待てば 雨が降る
 濡れて来ぬかと 気にかかる
 ああ ビルのほとりのティー・ルーム
 雨もいとしや 唄ってる
 甘いブルース
 あなたと私の合言葉
 「有楽町で逢いましょう」

 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正『有楽町で逢いましょう』(1957)

 これは出会いと別れを繰り返す男女の合言葉を歌った『有楽町で逢いましょう』の一番。 東京・有楽町にあった百貨店のキャンペーン・ソングとして作られたもので、偶然なのだけれど、再会の場所を「楽しみの有る町」とシャレている。 「♪あなたを待てば雨が降る」という日本のカウンターカルチャーのお約束が登場したのは、この歌が元祖ではないかとおもう。 こういうお約束があるので、再会を果たして別れた後、『紅い花』を耳にして「♪いつしか外は雨の音」と聞こえてきたら、日本人なら阿吽(あうん)の呼吸で「ああ、あのことね」と分かるのである。

フランク永井『有楽町で逢いましょう』(1957)
UNITED COVER 2  代表的カバーアルバム
 『UNITED COVER 2(2015)』
 井上陽水の“埋もれ歌”発掘作業。 2015年というところが重要。

 また『有楽町で逢いましょう』の佐伯孝夫と吉田正のコンビは、1962年の『いつでも夢を』で、その雨が降ってきたときに胸に流れてくる恋唄についても描いている。

 星よりひそかに 雨よりやさしく
 あの娘はいつも歌ってる
 声がきこえる 淋しい胸に
 涙に濡れた この胸に

 言っているいる お持ちなさいな
 いつでも夢を いつでも夢を

 星よりひそかに 雨よりやさしく
 あの娘はいつも歌ってる

 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正『いつでも夢を』(1962)

 “あの娘”というのは砂漠の女のことだ。 日本には砂漠の女の恋心を歌にした作品がたくさん残っていて、その“あの娘”の声が胸に響いてきたとき、男ははじめて、あの日、あの頃の歌の価値を知ることになる。 ところが、その頃には同時代の誰もがその文化を踏みにじっているというわけだ。 これが日本式のイエスタデイ・ワンス・モア。 『紅い花』はその時の心象風景を描いた歌なのである。

【いつでも夢を - 佐伯孝夫/吉田正(1962)】

 ちあきなおみは、この『紅い花』を最後に残して引退。 以来、日本から歌手がいなくなってしまった。

【紅い花 - 松原史明/杉本真人(1991)】

 西洋社会…とくにアメリカは、女性解放運動という名のもとに、砂漠の女を魔女裁判にかけてきたから、砂漠の女の歌は“埋もれ歌”になっている可能性が高い。 そういう時代背景があるので、砂漠の女の声を歌にするのは、日本の方が得意だった印象がある。 いくつか紹介しておこう。

バベル語の詩19 ~ 新詩篇より ~
 貴方の好きな人と 踊っていらしていいわ
 やさしい微笑みも
 その方に おあげなさい
 けれども 私がここにいることだけ
 どうぞ忘れないで

 ダンスはお酒みたい 心を酔わせるわ
 だけどお願いね
 ハートだけは とられないで
 そして私のため 残しておいてね
 最後の踊りだけは

 あなたに夢中なの いつかふたりで
 だれもいないところへ 旅に出るのよ

 どうぞ踊ってらっしゃい 私ここで待ってるわ
 だけど 送ってほしいと
 たのまれたら ことわってね
 いつでも 私がここにいることだけ
 どうぞ 忘れないで

 きっと私のため 残しておいてね
 最後の踊りだけは
 胸に抱かれて踊る
 ラストダンス 忘れないで

 作詞:岩谷時子 作曲:Mort Shuman『ラストダンスは私に』(1961)

 これは『上を向いて歩こう』と同じ年に発表された越路吹雪の『ラストダンスは私に』(1961)。 元歌はアメリカのドリフターズの男性目線の歌なのだけれど、作詞家の岩谷時子が女性目線に変えて砂漠の女の歌にしてしまった。 ビートルズの『アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア』(1963)と対になっていることが分かるだろうか。 こういう改良は日本のお家芸みたいなものだろう。

【ラストダンスは私に - 岩谷時子/Mort Shuman(1961)】

 日本で生まれた砂漠の女の歌をもう一つ。 以下はアン・ルイスが1974年に歌った『グッド・バイ・マイ・ラブ』。 この歌の場面は天王星ハーフ・リターンにおける再会のとき。 ゴールに待っている“初めてのキス”の誓いをして別れてくる心象風景が描かれている。

バベル語の詩20 ~ 新詩篇より ~
 グッバイ・マイ・ラブ この街角で
 グッバイ・マイ・ラブ 歩いてゆきましょう
 あなたは右に わたしは左に
 ふりむいたら負けよ
 グッバイ・マイ・ラブ も一度抱いて
 グッバイ・マイ・ラブ 私の涙を
 あなたの頬で ふいているのよ
 泣きまねじゃないの

 忘れないわ あなたの声
 やさしい仕草 手のぬくもり
 忘れないわ くちづけのとき
 そうよ あなたの あなたの名前

 Good-bye my love, I'll never forget you
 and please, oh, please say you'll never forget me
 We can meet again someday

 グッバイ・マイ・ラブ 二人の恋が
 グッバイ・マイ・ラブ 真実ならば
 いつかは逢える これが本当の
 さよならじゃないの

 忘れないわ あなたの声
 やさしい仕草 手のぬくもり
 忘れないわ くちづけのとき
 そうよ あなたの あなたの名前
 もちろん あなたの あなたの名前

 作詞:なかにし礼 作曲:平尾昌晃『グッド・バイ・マイ・ラブ』(1974)

 この歌で重要なのは“あなたの名前”だ。 この再会の日に男が砂漠の女に伝えるのは、自分が夢に呼ばれたときに使う名前なのである。 その名前をたよりに、砂漠の女は、男の行方を探すことになる。 日本のカウンターカルチャーには、こういう砂漠の女の地図がいくつも残されているのだ。

アン・ルイス『グッド・バイ・マイ・ラブ』(1974)
CLIP&COVERS  代表的カバーアルバム
 『CLIP&COVERS(2020)』
 砂漠の女を表現できるシンガー降臨の瞬間を捉えた映像作品。 2020年というところが重要。

 イギリスとアメリカ発のカウンターカルチャーは、世界的影響力を持っていたけれど、それはガイダンス的なものにすぎなかった。 人間が愛を知るための詳細な地図は日本で創造されていたのである。 とりわけ重要な“自由を知るためのバイブル”も、やはり日本で生まれていて、それが『新世紀エヴァンゲリオン』だった。

大厄
大厄

 日本の厄年モデルには“大厄”と呼ばれる時節が二度ある。 太陽回帰の33歳と天王星ハーフ・リターンの42歳だ。 このうち42歳の大厄が愛を知る時節であるならば、33歳の大厄は自由を知る時節と言えるだろう。 とくに33歳の大厄は、運命の分岐点になっていて、ここで自由を知ることに失敗した者は、もう愛を知ることはない。 マグルの素質を持つ者は、37歳の厄年までに、俗世のつまらない場所にちんまりと納まり、シスの素質を持つ者は、あっちの世界の袋小路にはまって抜け出せなくなる。 そして、それぞれの場所でラジャスの幸福とタマスの幸福をつかみ、その崩壊を見届けた後、「この人生が二度あれば…」とつぶやいて死ぬ。 つまり、33歳の大厄で自由を知った者だけが、ジェダイに選ばれて、サットヴァの幸福を探求する旅を続けるのだ。 心臓、尾てい骨、眉間に位置する三つのグランティは、その過程で自然に解ける。 参考までに記しておくと、私の場合は、ヴィシュヌ・グランティが32歳、ブラフマ・グランティが36歳、ルドラ・グランティが41歳のときに解けた。

バベル語の詩21 ~ 新詩篇より ~
 小さい頃は神さまがいて
 不思議に夢をかなえてくれた
 やさしい気持ちで目覚めた朝は
 おとなになっても奇蹟はおこるよ

 カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
 やさしさに包まれたなら きっと
 目にうつる全てのことはメッセージ

 小さい頃は神さまがいて
 毎日愛を届けてくれた
 心の奥にしまい忘れた
 大切な箱 ひらくときは今

 雨上がりの庭で くちなしの香りの
 やさしさに包まれたなら きっと
 目にうつる全てのことはメッセージ

 荒井由実『やさしさに包まれたなら』(1974)

 これは、ヴィシュヌ・グランティが解ける32歳の情景を描いた『やさしさに包まれたなら』。 1974年に発表されたユーミン(荒井由実・松任谷由実)の代表作で、レリエルの試練のこの場面を描いている。 やさしさに包まれたなら  この運命の試練のときに、歌に書かれているとおりに実践すると自由を知ることができる。 それがアニメ版『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話で描かれていた場面なのだ。 とりあえず、その地点まで諸君を連れていくことが人類補完計画の目標である。 そこまでたどり着いたなら、もう誰の案内もいらない。 自分の力で人生を切り開けるようになっていることだろう。

人類補完計画の目標 ~新創世記より~
人類補完計画の目標

 シンジ:僕は僕が嫌いだ。

 シンジ・アスカ・ミサト:でも、好きになれるかもしれない。

 シンジ:僕はここにいてもいいのかもしれない。 そうだ、僕は僕でしかない。 僕は僕だ。 僕でいたい! 僕はここにいたい! 僕はここにいてもいいんだ!

 ワァー! ブラボーッ!
 おめでとう!

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 とはいえ話はそんなに単純ではない。 まずは、この『やさしさに包まれたなら』が生まれてきた時代背景から段階的に説明していこう。

荒井由実『やさしさに包まれたなら』(1974)
MISSLIM  収録アルバム
 『MISSLIM(1974)』
 日本のカウンターカルチャー黄金期の幕開けを告げた傑作の一つ。

 『上を向いて歩こう』を中心とする1960年代の歌は、団塊世代が9と4分の3歳を迎えた頃に創造された作品群。 団塊世代とは戦後の第一次ベビー・ブーム(1947-1949)のときに生まれた人たちだ。 彼らはビートルズとボブ・ディランから始まった英米のカウンターカルチャーをリアルタイムで享受していた世代でもある。 いわば日本のヒッピー世代。 そんな期待の世代だったのだけれど、1969年の学生運動で機動隊に火炎瓶を投げつけた時点で、彼らの人生は終わった。 諸外国の若者たちと同じく、自由の意味をはき違えていたのである。

バベル語の詩22 ~ 新詩篇より ~
 まいにち まいにち ぼくらはてっぱんの
 うえで やかれて いやになっちゃうよ
 あるあさ ぼくは みせのおじさんと
 けんかして うみに にげこんだのさ

 はじめて およいだ うみのそこ
 とっても きもちが いいもんだ
 おなかの あんこが おもいけど
 うみは ひろいぜ こころがはずむ
 ももいろ サンゴが てをふって
 ぼくの およぎを ながめていたよ

 まいにち まいにち たのしいことばかり
 なんぱせんが ぼくのすみかさ
 ときどき サメに いじめられるけど
 そんなときゃ そうさ にげるのさ

 いちにち およげば はらぺこさ
 めだまも くるくる まわっちゃう
 たまには エビでも くわなけりゃ
 しおみず ばかりじゃ ふやけてしまう
 いわばの かげから くいつけば
 それは ちいさな つりばりだった

 どんなに どんなに もがいても
 ハリが のどから とれないよ
 はまべで みしらぬ おじさんが
 ぼくを つりあげ びっくりしてた

 やっぱり ぼくは たいやきさ
 すこし こげある たいやきさ
 おじさん つばを のみこんで
 ぼくを うまそうに たべたのさ

 作詞:高田ひろお 作曲:佐瀬寿一『およげ!たいやきくん』(1975)

 これは日本版『ホテルカリフォルニア』の『およげ!たいやきくん』(1975)。 自由の意味をはき違えた団塊世代に対する皮肉になっていたのだけれど、その意味が解っていたのは当時の子供たちだけだろう。 この時代には子供の感性で聞かないと意味が解からない歌というのがいくつかあって、大人たちにはそうと気づかせないようにするのが日本流だった。

【およげ!たいやきくん - 高田ひろお/佐瀬寿一(1975)】

 私の属している団塊ジュニア世代は、こうした自由を失った閉塞感に支配されていた時代に生まれてきた。 団塊ジュニアとは、団塊世代の子供たちで、第二次ベビー・ブーム(1971-1974)生まれの世代。 生まれたときから「打倒!団塊世代」を運命づけられていて、私たちの幼少期は『およげ!たいやきくん』が繰り返しテレビから流れていた。 おかげで「団塊のバカ親たちと同じ轍は絶対に踏まねえ!」というのが我々のスローガンになった。 『スター・ウォーズ』が「打倒!父親」の物語になっていたのも決して偶然ではない。 現代社会に閉塞感をもたらしたのは団塊世代―すなわち自由の意味をはき違えた世代が諸悪の根源だったのである。 そんな時代に登場してきたのが井上陽水とユーミンを中心とする預言者たちだった。 彼らの活躍により、日本のカウンターカルチャー黄金期が幕を開ける。

井上陽水『氷の世界』(1973)
氷の世界  収録アルバム
 『氷の世界(1973)』
 日本初のミリオンセラー。 日本のカウンターカルチャー黄金期の幕開けを告げた一枚。

 まず口火を切ったのは井上陽水。 1973年12月に発表したアルバム『氷の世界』が日本初のミリオンセラーを記録して、日本のカウンターカルチャー黄金期の幕開けを印象付けた。 続いて1974年10月にユーミンが『MISSLIM』を発表。 『やさしさに包まれたなら』はそこに収められていた。 彼ら日本の預言者たちが挑んだのは、33歳の大厄および42歳の大厄を乗り越えるための地図を描くこと。 すなわち、自由と愛のバイブルを編纂していたのである。

木星回帰25(Jupiter Return 25)
木星回帰25

 私たちが自由を失ってしまう原因を考えてみよう。 人間は、まず最初に両親から嫌われることを怖れ、次いで他人から嫌われることを怖れる。 そこからは自分を受け入れてくれるコミュニティに合わせたペルソナをかぶり、それを自分の個性だと思い込むようになる。 それが自由を損なう原因だ。 マグルはそんな自分をごまかしながら一生を過ごせるのだけれど、まともな神経の持ち主なら、それに耐えられなくなるときがくる。 それが二度目の木星回帰のとき--25歳の厄年で起こることだ。 これは、たいていの日本人が“とんぼ現象”として知っている。

バベル語の詩23 ~ 新詩篇より ~
 コツコツとアスファルトに刻む
 足音を踏みしめるたびに
 俺は俺で在り続けたいそう願った

 裏腹な心たちが見えて
 やりきれない夜を数え
 のがれられない闇の中で
 今日も眠ったふりをする

 死にたいくらいに憧れた花の都“大東京”
 薄っぺらのボストン・バッグ北へ北へ向かった
 ざらついたにがい砂を噛むと
 ねじふせられた正直さが
 今ごろになってやけに骨身にしみる

 ああ しあわせのとんぼよ どこへ
 お前はどこへ飛んで行く
 ああ しあわせのとんぼが ほら
 舌を出して笑ってらあ

 明日からまた冬の風が
 横っつらを吹き抜けて行く
 それでもおめおめと生き抜く俺を恥らう

 裸足のまんまじゃ寒くて
 凍りつくような夜を数え
 だけど俺はこの街を愛し
 そしてこの街を憎んだ

 死にたいくらいに憧れた東京のバカヤローが
 知らん顔して黙ったまま突っ立てる
 ケツの座りの悪い都会で憤りの酒をたらせば
 半端な俺の骨身にしみる

 ああ しあわせのとんぼよ どこへ
 お前はどこへ飛んで行く
 ああ しあわせのとんぼが ほら
 舌を出して笑ってらあ

 長渕剛『とんぼ』(1988)

 ペルソナをかぶると次第に自分が自分でなくなっていく。 裏腹な心を抱えて生きている自分が見えてきて、ねじふせてきたインナーチャイルドの正直さが骨身にしみてくる。 俺は俺で在り続けたい…そう願ったなら、やることは一つ。 “とんぼ返り”するしかない。 憧れを抱いて出てきた都会から、故郷に帰らなければならないことに気づく。 それが25歳の厄年で起こる“とんぼ現象”。 この現象を歌にしたのが長渕剛の『とんぼ』(1988)なのである。

長渕剛『とんぼ』(1988)
昭和  収録アルバム
 『昭和(1989)』
 長渕剛の星は南斗五車星の“炎”。 彼の対になる代表曲は『とんぼ』と 『しゃぼん玉』(1991)。 アルバムは『JEEP』(1990)が最高傑作で、これは必聴。 アルバム全体が自由のバイブルになっているからだ。 “炎”の星の預言者の特徴は33歳の大厄を乗り越えるための自由のバイブルを書くことにある。

 17歳で砂漠の女に出会ったら、男は故郷を離れて、どこか遠くへ行きたい衝動に駆られるものだ。 彼女が故郷を離れるようにしきりに促すからである。 これが一度目のメトン周期のとき-19歳の厄年で起こる現象になっている。

メトン周期19(Metonic cycle 19)
メトン周期19

 男のなかには、17歳で砂漠の女に出会っても、故郷を離れようとしないやつがいる。 されど、もとより男は旅する生き物だ。 旅に出ない男は例外というより論外である。 こうした男旅の衝動は、永六輔と中村八大のコンビが『遠くへ行きたい』(1962)という歌にしていた。

バベル語の詩24 ~ 新詩篇より ~
 知らない街を歩いてみたい
 どこか遠くへ行きたい

 知らない海をながめていたい
 どこか遠くへ生きたい

 遠い街 遠い海
 夢はるか 一人旅

 愛する人とめぐり逢いたい
 どこか遠くへ行きたい

 愛し合い 信じあい
 いつの日か 幸せを

 作詞:永六輔 作曲:中村八大『遠くへ行きたい』(1962)

 まず最初の「知らない街を歩いてみたい」という衝動は、19歳の厄年のもの。 それから三番目の「愛する人とめぐり逢いたい」という衝動は、42歳の厄年で砂漠の女と再会を果たした後の衝動ということも分かるだろう。 むずかしいのは二番目の「知らない海をながめていたい」で、これが25歳の“とんぼ現象”のときの衝動なのだけれど、この部分は少し説明が必要だとおもう。

【遠くへ行きたい(4:17~) - 永六輔/中村八大(1962)】

 人間は、両親の抱える劣等感を幼少期から繰り返し聞かされて、まったく同じ思考パターンを植えつけられていく。 そのため親と子はそっくり同じ形をした心の壁―A.T.フィールド―を持っている。 それは、たとえば口癖に現れたりするものだから、同じ思い癖を抱えるようになると言えるかもしれない。 それが14歳のサキエルの試練で両親からEVAに乗せられるということ。 つまり、両親とは別の人生を歩んでいるつもりでいても、人生の岐路に立つときには、両親の意向に従うかのように同じ行動パターンをとってしまう。 当初は、そのことで心の痛みを強く感じたはずなのに、両親や周囲の人たちに認められる成功体験を積み重ねているうちに、その痛みにも慣れっこになっていく。 それが“使徒サハクィエルの誘惑”だ。

サハクィエルの誘惑 ~新創世記より~
サハクィエルの誘惑

 シンジ:ねぇ、ミサトさん…

 ミサト:なぁに?

 シンジ:さっき、父さんの言葉を聞いて、誉められることが嬉しいって、はじめて分かったような気がする。 それに、分かったんだ。 僕は、父さんのさっきの言葉を聞きたくて、EVAに乗ってるのかもしれないって。

 アスカ:あんた、そんな事で乗ってるの?

 シンジ:…

 アスカ:ほんとにバカね。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾弐話 奇跡の価値は

 19歳の厄年からしばらくは、故郷から遠く離れた場所で、こういう両親や周囲の人たちに認められる生き方を模索してみる時期になっている。 いわば試供品のお試し期間みたいなものだろうか。 その試供品は突き返さなければならない。 ところが、たいていの男女の魂は、このあたりで出会いと別れを繰り返す人生の旅をやめてしまうものだ。 たとえば大学を卒業して就職を決めたとたんに結婚するような男は、サハクィエルの誘惑に負けたと言っていい。 運命には、男を誘惑する女というのが用意されていて、その女が22歳あたりで現れる。 それはすぐに手に入る現実的な幸せを志向する女だ。 軟弱な男たちは、25歳の厄年の前厄にあたる23歳になると、その女と一緒に人生を妥協することを考え始める。 すると片割れの女の方にも現実志向のつまらない男がちゃんと現れる。 この現象は、たいていの日本人が“22才の別れ現象”および“なごり雪現象”として知っているはずだ。

 私の誕生日に22本のローソクをたて
 ひとつひとつが みんな君の人生だねって言って
 17本目からはいっしょに火をつけたのが
 きのうのことのように…

 今はただ5年の月日が永すぎた春といえるだけです
 あなたの知らないところへ嫁いでゆく 私にとって

 伊勢正三『22才の別れ』(1974)

 これが25歳の厄年のとき、出会いと別れを繰り返す旅をやめた女の魂に起こる“22才の別れ現象”。 ほとんどの男女の魂が17歳で出会って22歳を過ぎた時点でその旅に終止符を打つ。 そのとき、一方の男の魂に起こるのが“なごり雪現象”だ。

 汽車を待つ君の横で僕は
 時計を気にしてる
 季節はずれの雪が降ってる
 「東京で見る雪はこれが最後ね」と
 さみしそうに 君がつぶやく

 なごり雪も 降る時を知り
 ふざけすぎた 季節のあとで

 伊勢正三『なごり雪』(1974)

 人生の途中で妥協した瞬間は、長い冬の期間が終わって、春が来たかのように感じるものだ。 その男の人生には、もう雪が降り積もることはないけれど、そのかわり、故郷に帰って砂漠の女と再会することもなくなる。 だから、なごり雪だけは一生降りやまない。 団塊世代は、この25歳の厄年における妥協の産物として、団塊ジュニアを産み落とした。 それが第二次ベビー・ブームだったのである。

 君が去ったホームに残り
 落ちてはとける 雪を見ていた
 今 春が来て 君はきれいになった
 去年より ずっと きれいになった

 伊勢正三『なごり雪』(1974)

 創造主のやることは粋(いき)だ。 団塊世代に対する皮肉にしては、あまりに美しすぎる。

伊勢正三『22才の別れ/なごり雪』(1974)
三階建の詩  収録アルバム
 『三階建の詩(1974)』
 巨匠・伊勢正三の対になる代表作が生まれた一枚にして、団塊世代に対する死亡宣告。

 22歳のときに誘惑を仕掛けてくる男と女は、阿久悠によって、それぞれ“ジョニィ”と“マリー”と名付けられている。 彼らとはきっぱり別れなければならない。 伊勢正三の『22才の別れ』と『なごり雪』は不正解のケースを描いた作品だけれど、正解を描いたものが、阿久悠と都倉俊一の『ジョニィへの伝言』(1973)と『五番街のマリーへ』(1973)になっていた。 つまり、こちらは団塊ジュニアに対する贈り物である。

【ジョニィへの伝言/五番街のマリーへ - 阿久悠/都倉俊一(1973)】

 このときの別れは、心に“しこり”を残すものになるけれど、それを如何にして清算するかが運命の試練のひとつになっている。 諸君は、この別れをすでに済ませてきたことだろう。 その心のしこりをうまく清算できると、まさしく歌にあるとおり、互いに共通の友人を通して伝言を伝えあうことになる。

 五番街へ行ったならば
 マリーの家へ行き
 どんな暮らししているのか
 見て来てほしい
 五番街で住んだ頃は
 長い髪をしてた
 可愛いマリー 今はどうか
 知らせてほしい

 作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一『五番街のマリーへ』(1973)

 こんな感じでジョニィが旧友を訪ねていくと、かつてマリーが自分への伝言を旧友に託していたことを知るのだ。

 ジョニィが来たなら伝えてよ
 二時間待ってたと
 わりと元気よく 出て行ったよと
 お酒のついでに 話してよ
 友だちなら そこのところ
 うまく伝えて

 作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一『ジョニィへの伝言』(1973)

 まったくこの通りの情景が人生の何処かに待っているから、自分で体験してみるといい。 25歳の厄年のときにマリーとの別れを済ませたら、『遠くへ行きたい』にある「知らない海をながめていたい」という衝動が、そこから起こる。 この衝動を描いた歌は日本にはない。 でも、こちらにないものは、あちらにあるということで、オーティス・レディングの『(Sittin' on)The Dock of the Bay』(1968)を聞いてみよう。

バベル語の詩25 ~ 新詩篇より ~
 日の出からずっと座ってるんだけど
 きっと夕日が落ちるときも座ってるよ
 船が入り江に入ってきて
 また出ていくのを眺めてるんだ

 僕は波止場に腰かけて
 潮の満ち引きを眺めてる
 ただ座ってるだけなのさ

 故郷のジョージアを離れて
 サンフランシスコ湾に向かった
 生き甲斐なんてひとつもなかったよ
 この先も何ひとつ思い通りにならない気がする

 だから僕は波止場に腰かけて
 潮の満ち引きを眺めてる
 ただ座ってるだけなのさ
 時間の浪費ってやつだよな

 何も変わりそうにない気がする
 何もかもが同じままだ
 十人が十人やったほうがいいと言うことなんか
 僕にはできっこない
 だから僕は思うんだ
 僕はきっと同じままなんだってね

 身体を楽にして座ってるんだけど
 この孤独が去っていってくれない
 二千マイルの放浪は
 この波止場を僕のすみかにしただけだった

 さて 僕は波止場に腰かけて
 潮の満ち引きを眺めてる
 ただ座ってるだけなのさ
 時間の浪費ってやつだよな

 オーティス・レディング/スティーヴ・クロッパー『(Sittin' on)The Dock of the Bay』(1968)

 これは26歳のときに飛行機事故で亡くなったオーティス・レディングの遺作となった歌で、アメリカ版の『とんぼ』といった内容になっている。 何かを根本から変えないことにはどうにもならないもどかしさ…と言ったらいいだろうか。 25歳の厄年を過ぎた頃というのは、何処に向かったらいいのかさっぱり判らなくなるから、ただ潮の満ち引きを眺めるような時間の浪費をしてしまう。 諸君なら、その想いが胸に痛いほど分かるだろう。

Otis Redding『(Sittin' On) The Dock Of The Bay』(1968)
TOP GUN  収録アルバム
 『「TOP GUN」サウンド・トラック(1986)』
 “After1985”に起こったオールディーズガイド現象。

 私がこの歌を知ったのは『TOP GUN』という80年代アメリカ映画のサウンド・トラック。 1985年の『USA For Africa - We Are the World』以降、アメリカの音楽はつまらなくなったのだけれど、娯楽映画は飛びきり上等だった。 80年代のアメリカ映画というのは、1950-60年代のオールディーズが重要なシーンで効果的に使われていて、それが映画を観た後からジワジワくるのである。 たぶん、そこに“声”があったからだ。 「これからはオールディーズを探せ」と。

【Back to the Future(1985) -- Marty McFly Plays “Johnny B. Goode” and “Earth Angel”】

 最初にその“声”を発信したのはロバート・ゼメキス監督の『Back to the Future』(1985)だった。 これは1955年の過去にタイムトリップする物語。 私はその中で演奏された「Johnny B. Goode」でオールディーズの虜になり、映画のサウンド・トラックを足がかりにして、“声”を探すタイムトリップに夢中になっていった。 その時代の最後を飾ったのが1990年の『GHOST』だったとおもう。

バベル語の詩26 ~ 新詩篇より ~
 僕の愛しい人よ
 君に触れたくてたまらない時を過ごしてる
 長く寂しい時間を

 時はあまりにゆっくりと過ぎゆくもので
 その時がなければほとんど何もうまくやれない
 君はそれでも僕の片割れでいてくれるかい?

 僕は君の愛を求め
 君の愛は僕を支える
 神は僕に君の愛を恵みたもう

 川はみんなひとりぼっちだけれど
 海へ 海へと流れゆく
 海原に広げられた両腕を目指して

 そう こう胸の内でささやきながら
 「待ってて 僕を待っていて
 いま帰ろうとしているところなんだ
 だからきっと待っていて」と

 ハイ・ザレット/アレックス・ノース『Unchained Melody』(1955)

 『GHOST』は、死んで幽霊になってしまった男の物語で、もう触れ合えない恋人と心が通じ合った場面に、この『Unchained Melody』が流れる。 もともとは刑務所から脱走した男が家族の元に帰ろうとする映画の主題歌だったらしい。 それで「鎖から解放されたメロディー」というタイトルになっている。 偶然とはいえ、これはたしかに男を待っている砂漠の女の心を解放する力を持つ歌だ。 イギリス人とアメリカ人はこういう男旅の心情を描くのが憎らしいほど上手い。 『Unchained Melody』が創られたのは『Back to the Future』の舞台になっていた1955年。 この歌をつかんで1990年にバック・トゥ・ザ・フューチャーしたとき、アメリカ映画からも“声”がしなくなった。

The Righteous Brothers『Unchained Melody』(1965)
Ghost  収録アルバム
 『「GHOST」サウンド・トラック(1990)』
 “After1985”に起こったオールディーズガイド現象。

 さて、波止場に腰かけて、知らない海を眺めながら考えることと言えば、都会に残るか、それとも、故郷に帰るのか。 この葛藤は25歳の厄年で魂の旅から降りた人たちには起こらない。 旅を続ける人々だけが体験できる贅沢な悩みだ。 この時期の二者択一の葛藤を描いた歌に中島みゆきの『ホームにて』(1977)がある。

バベル語の詩27 ~ 新詩篇より ~
 ふるさとへ向かう最終に
 乗れる人は急ぎなさいと
 やさしい やさしい声の駅長が
 街なかに叫ぶ
 振り向けば空色の汽車は
 いまドアが閉まりかけて
 灯りともる窓の中では帰りびとが笑う

 走り出せば間に合うだろう
 かざり荷物をふり捨てて
 街に街に挨拶を
 振り向けばドアは閉まる

 振り向けば空色の汽車は
 いまドアが閉まりかけて
 灯りともる窓の中では帰りびとが笑う
 ふるさとは走り続けたホームの果て
 叩き続けた窓ガラスの果て
 そして手のひらに残るのは
 白い煙と乗車券

 涙の数 ため息の数
 たまってゆく空色のキップ
 ネオンライトでは燃やせない
 ふるさと行きの乗車券

 たそがれには彷徨う街に
 心は今夜もホームにたたずんでいる
 ネオンライトでは燃やせない
 ふるさと行きの乗車券

 中島みゆき『ホームにて』(1977)

 この葛藤が生まれたときから対峙することになるのが劣等感である。 都会では生きがいを見つけられないことが分かっていても、故郷に帰ることにはためらいを感じてしまう。 それは劣等感が邪魔しているからだ。

中島みゆき『ホームにて』(1977)
あ・り・が・と・う  収録アルバム
 『あ・り・が・と・う(1977)』
 中島みゆきの星は南斗五車星の“風”。 風の星の預言者は、時代の胎動を告げる役割を担っていて、出会いと別れを繰り返す男女の“魂の旅”について歌う。 風の星の特徴をよく表している代表曲としては『地上の星』と『時代』『糸』を挙げられるだろう。 “炎”とは兄弟星の関係にあるので、この『ホームにて』のような自由のバイブルも書く。 旅の視点からのアプローチになっているところが、いかにも風の星らしい。

 25歳の厄年を過ぎる頃には、都会で出会った友人たちはみな魂の旅をやめている。 そうなったら都会はもはや魂の墓場だ。 23歳の前厄からはじまる25歳の厄年の三年間―たった三年間で住んでる世界がまるきり違ってきてしまうのだ。 すでに都会には自分の居場所がない。 だからといって、ここで都会から逃げ出したら、もう誰からも相手にしてもらえない気がしてくる。

逃げちゃだめだ。 ~新創世記より~
逃げちゃだめだ。

 シンジ:逃げちゃだめだ。

 レイ:どうして逃げてはいけないの?

 シンジ:逃げたら辛いんだ!

 レイ:辛いことから逃げ出したのに?

 シンジ:辛かったんだよ!

 アスカ:辛いことが分かってるんなら、それでいいじゃん。

 ミサト:そう。辛かったら逃げてもいいのよ。

 レイ:本当に嫌だったら、逃げ出してもいいの。

 シンジ:でも嫌だ! 逃げるのはもう嫌なんだよ! そう、逃げちゃだめなんだ!

 ミサト:それは、ただ逃げるほうがもっと辛いと感じているからよ。

 アスカ:逃げ出した辛さを知ったから。

 レイ:だから逃げるのが嫌なのね。

 シンジ:だって、逃げ出したら誰も相手にしてくれないんだ!

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 劣等感は誰からも相手にされないことに対する怖れから生じる。 恋人から軽蔑されることに対する怖れ、友人から馬鹿にされることに対する怖れ、社会から受け入れてもらえなくなることに対する怖れ。 そして、何より両親から拒絶されることに対する怖れ。 それは「素の自分には何の価値もない」という劣等感をもたらし、その劣等感に負けないペルソナを見つけようとして、人々は故郷を飛び出してくる。 ある者は何らかの肩書きを身に着け、ある者は資格を取得し、ある者は技能を磨く。 そうやって都会では、誰もがペルソナをかぶって、EVAに乗っている。

だからEVAに乗ってる。 ~新創世記より~
だからEVAに乗ってる。

 シンジ:誰も僕を受け入れてくれないんだ。

 ミサト:そう思い込んでいるだけでしょ?

 シンジ:だから僕は、EVAに乗らなきゃいけない。

 ミサト:自分には、最初から価値がないと思い込んでいるだけなんでしょ?

 シンジ:そうしなきゃいけないんだ!

 ケンスケ:そんな事ないさ。

 トウジ:そう思い込んでるだけやで。 きっと。

 シンジ:違う。 僕に価値はない。 誇れるものがない。

 アスカ:だからEVAに乗ってる。

 シンジ:EVAに乗ることで、僕は僕でいられる。

 アスカ:EVAに乗ることで、私は私でいられる。

 シンジ:EVAに乗る前の僕には、何もなかった。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 25歳の厄年までは、EVAに乗ることで、すなわち、ペルソナをかぶることで、自分が自分でいられた。 ところが、25歳の厄年になると、ペルソナをかぶることで、逆に自分が自分でなくなっていくような気がしてくる。 素の自分に戻るためには、それまで身に着けたペルソナを脱ぎ捨てなければならないけれど、そんな自分には何の価値もない。 そんなことをしたら、誰からも相手にされないことに対する怖れに、ふたたび直面しなければならなくなる。 しかし、魂の旅を続けることは、その劣等感と対峙することなのだ。

土星回帰29(Saturn Return 29)
土星回帰29

 そんな時節を迎えたときに土星が回帰してくる。 一度目の土星回帰の影響は27-31歳だ。 25歳の厄年をなんとか乗り越えた人たちも、ここから一斉(いっせい)に転落をはじめる。 逃げるように転職してみたり、自分に価値を与えてくれる資格や技能を取得して、いちど脱ぎ捨てようとしたペルソナを再び身に着けてしまうのだ。

 小さい頃は神さまがいて
 不思議に夢をかなえてくれた
 やさしい気持ちで目覚めた朝は
 おとなになっても奇蹟はおこるよ

 荒井由実『やさしさに包まれたなら』(1974)

 土星が回帰してくるとき、インナーチャイルドはこう語りかけてくる。

 「これまで身に着けたペルソナをすべて脱ぎ捨てて、自分に何の価値もなかった子供の頃にもう一度もどったら、大人になっても奇蹟はおこるよ。 そんなホントの勇気を見せてくれたら、君にキラキラ光った夢をあげる」

 ところが人々は、劣等感に屈して、この声を退けてしまうのだ。 その中には19歳の厄年を迎える以前に出会ったフォース・チルドレンも含まれる。 ここでインナーチャイルドの声を聞き続けようとするなら、まもなく親友が一人ずついなくなっていく孤独を体験しなければならない。 日本には、この時節のことを描いた自由のバイブルがある。 長渕剛のアルバム『JEEP』(1990)に収録されている「Myself」だ。

バベル語の詩28 ~ 新詩篇より ~
 人ごみに紛れると なおさら涙がでるから
 やっぱり一人に なろうとした
 それでも寂しくて 涙がでたから
 俺は初めて ほんとの友を探した

 やりたい事と やりたくねえ事とが
 思いどうりにいかなくて
 「夢は何ですか?」と 聞かれる事が
 この世で一番 怖く思えた

 だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ生きてえ
 恥ずかしそうにしてる お前が好きだ
 だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ生きてえ
 寂しさに涙するのは お前だけじゃねえ

 上を見ると 負けたくなくて
 悔しさと羨ましさを かくして笑って見せた
 俺みたいな男は…と 背中を丸めたら
 やけに青い空が 邪魔くさく思えた

 離れていく者と 離したくねえ者とが
 思いどうりに いかなくて
 ひとときの楽しさに 思いきり身をゆだねたら
 なおさら寂しくて 涙も枯れ果てた

 だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ生きてえ
 恥ずかしそうにしてる お前が好きだ
 だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ生きてえ
 寂しさに涙するのは お前だけじゃねえ

 長渕剛『Myself』(1990)

 こうして寂しさに涙しながらペルソナを脱ぎ捨てるためには、振り出しに戻って人生を一からやり直さなければならない。 故郷はそのためにある。 なぜなら故郷は“出発点のある場所”だからだ。

長渕剛『Myself』(1990)
Myself  収録アルバム
 『JEEP(1990)』
 アルバム全体が自由のバイブル。 必ず聴くべし、何度も聴くべし。

 「知らない街を歩いてみたい」という衝動が生まれる19歳の厄年の心象風景なら、イギリスのキャット・スティーヴンスの『Father and Son』(1970)が白眉(はくび)だとおもう。 その年ごろに感じることと言えば、両親との間にある“価値観の違い”とか“世代間のずれ”みたいなもので、それを押し付けられることから逃げるように故郷を離れてくる。 そうしなければ自分自身の人生を生きることができないという苛立ちや焦りを抱えての出発だ。

バベル語の詩29 ~ 新詩篇より ~
 [Father]

 今すぐ変わらなくたっていいじゃないか
 落ち着いて気楽に考えたらどうだ
 おまえはまだ若いから分からないんだよ
 おまえには知るべきことが山ほどある

 いい娘を見つけてよろしくやるといい
 なんなら結婚したってかまわない
 俺をみてみろ
 年はとったが幸せだぞ

 昔は俺も今のおまえみたいだったから
 簡単な話じゃないことくらい分かってる
 とても落ち着いていられるものじゃないよな
 何かが起こりそうな予感がしてるんだろ

 でも時間をかけてよく考えてみるんだ
 自分の器量みたいなものとかをだな
 おまえが明日もここに存在するからといって
 おまえの夢もそうだという保証はないんだから

 [Son]

 どうにも説明のしようがない
 説明しようとしたらあいつはまたそっぽを向く
 いつだって同じなのさ
 おやじの小言ばかりなんだ

 話ができるようになったときから
 俺の話を聞けと言われてきた
 今なら別の道が開けてる 分かってるんだ
 遠くへ行かなくちゃいけないってね
 そう 僕は行かなくちゃいけない

 僕はいつも泣いていた
 胸の内にあるものすべてを抱え込んだまま
 大変なのは分かってる
 でもそれを無視することのほうがずっと辛いんだ

 もしもあっちが正解なら僕だってうなづくよ
 でもあちらが知ってるのはあちらの正解であって
 こっちの正解じゃない
 今なら別の道が開けてる 分かってるんだ
 遠くへ行かなくちゃいけないってね
 そう 僕は行かなくちゃいけない
 キャット・スティーヴンス『Father and Son』(1970)

 ところが、故郷を離れて25歳の厄年を迎える頃には、能力以上の努力義務を自分で自分に課すようになり、みずからの身を心理的圧力が常にかかっている状況に追い込んでしまう。 それが本当に自分の望んだことなのか? 誰のために、何のために、生きているのか分からなくなってしまう。

誰のために生きてるの? ~新創世記より~
誰のために生きてるの?

 レイ:なぜ、生きてるの?

  「わからない」

 アスカ:それを知りたくて、生きてるのかな?

 レイ:誰のために生きてるの?

 アスカ:もちろん、私のためよ。

 シンジ:多分、自分のために。

  「本当に?」

 レイ:生きていて嬉しい?

 シンジ:分からない。

 レイ:生きていて嬉しい?

 アスカ:嬉しいに決まってるわよ。

 レイ:生きていて嬉しい?

 ミサト:楽しいことしか、したくないの。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 能力以上の努力義務を自分で自分に課すのは、他人に認めてもらうためのペルソナを維持しなければならないからだ。 そのため、仕事で一定の成果を挙げてみても、自分の本心から生まれた願望を実現したわけではないから、ちっとも嬉しくはない。

他人に認めてもらうためのペルソナ ~新創世記より~
他人に認めてもらうためのペルソナ

 マコト:ご昇進、おめでとうございます。葛城三佐!

 ミサト:認められているのは、認められようと演じている自分で、本当の自分ではないのよ。 本当の自分はいつも泣いているくせに…いいえ、私は幸せなの…私は幸せなの…私は幸せなの…。 違う!これは幸せなんかじゃない! こんなの、本当の自分じゃない! そう思い込んでいるだけなの!

 シンジ:そうしないと、僕らは生きていけないのか…

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾伍話 終わる世界

 ペルソナを維持していなければ、人々は生きてはいけない。 25歳の厄年を過ぎると、そんな自分に疲れてうんざりしてくるのに、それでも人々はペルソナを脱ぎ捨てようとはしないものだ。 もちろんその裏には誰からも相手にされないことに対する怖れがあるだろう。 けれども、その怖れを生み出している根本原因が子供の頃の自分の声にある。 たとえばこんな感じのものだ。

 「よい子にならなきゃいけないの。 そしてパパに嫌われないようにするの」

 人々が最初に覚えることになる両親から相手にされないことに対する怖れは、よい子になって両親に褒められようとする努力に変化していく。 ここに人々がペルソナを維持しなければ生きていけなくなった出発点がある。

ペルソナを維持している自分の出発点 ~新創世記より~
ペルソナを維持している自分の原点

 ミサト(チャイルド):よい子にならなきゃいけないの。 パパがいないから。 ママを助けて私はよい子にならなきゃいけないの。 でも、ママのようにはなりたくない。 パパがいないとき、ママは泣いてばかりだもの。 泣いちゃだめ、甘えちゃだめ。 だから、よい子にならなきゃいけないの。 そしてパパに嫌われないようにするの。

 ミサト(アダルト):でも父は嫌い。 だからよい子も嫌い。 もう嫌い。 もう疲れたわ。 きれいな自分を維持するのに。 きれいなフリを続けている自分に…もう疲れたわ…

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾伍話 終わる世界

 このペルソナを維持するようになった自分の出発点を見つければ心の解放が起こる。 そのときやさしさに包まれるのだ。 つまり、人々は両親に褒められようとしてよい子になったときから、ペルソナをかぶり、自分の本心を偽って生きはじめる。 だから、どのようにペルソナをかぶり、どうやって本心を偽ってきたのか―その心の観察ができれば、そこからは自分の本心に従って生きられるわけだ。 理論的には。

自分が分かれば優しくできる ~新創世記より~
自分が分かれば優しくできる

 シンジ:でも、僕は僕が嫌いなんだ。

 レイ:自分が嫌いな人は、他人を好きに、信頼するようになれないわ。

 シンジ:僕は卑怯で、臆病で、ずるくて、弱虫で…

 ミサト:自分が分かれば、優しくできるでしょう?

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 問題は、そうした心の観察は投射する相手を必要とすることにある。 それも自分と同じように弱虫で、卑怯で、臆病で、ずるい相手―すなわち自分と同じ偽りのペルソナの持ち主でなければならない。 その相手の偽りのペルソナを嫌うことなく許すことができれば、自分自身の偽りのペルソナも嫌うことなく客観的に受け入れることができる。 そんな投射相手は…故郷の両親以外に誰がいる?

Cat Stevens『Father and Son』(1970)
Tea for the Tillerman  収録アルバム
 『Tea for the Tillerman(1970)』
 『Sad Lisa』とかも好きなんだよなあ。 もう50年前の作品なのでYouTubeで全部聴けるみたい。

 そうして故郷に帰ったときの心象風景は、谷村新司と堀内孝雄のコンビが『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)という歌にしている。 夢の列車が自分を迎えに来る時まで、故郷で暮らしていこうという決意の歌だ。

バベル語の詩30 ~ 新詩篇より ~
 悩み続けた日々が
 まるで嘘のように
 忘れられる時が
 来るまで 心を閉じたまま
 暮らしてゆこう
 遠くで汽笛を聞きながら
 何もいいことがなかったこの街で

 俺を見捨てた女を
 恨んで生きるより
 幼い心に秘めた
 むなしい涙の捨て場所を
 さがしてみたい
 遠くで汽笛を聞きながら
 何もいいことがなかったこの街で

 せめて一夜の夢と
 泣いて泣き明かして
 自分の言葉に嘘は
 つくまい 人を裏切るまい
 生きてゆきたい
 遠くで汽笛を聞きながら
 何もいいことがなかったこの街で

 作詞:谷村新司 作曲:堀内孝雄『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)

 ここは勘違いする人が多いようなので解説を加えておこう。 まず、“故郷に帰る”というのは、故郷に帰省して両親に顔を見せて来るということではない。

 悩み続けた日々が
 まるで嘘のように
 忘れられる時が
 来るまで 心を閉じたまま
 暮らしてゆこう

 作詞:谷村新司 作曲:堀内孝雄『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)

 身に着けたペルソナがすっかり落ちるまで故郷で暮らすのである。 両親とじっくり顔を突き合わせて、そのペルソナの成り立ちを理解しなければ、自分のかぶっているペルソナを理解できないからだ。 ここで分かったつもりになって、またどこかへ行ってしまったら、苛立ちと焦りの理由を理解できないまま飛び出した19歳の厄年のときと同じことになってしまう。

分かった気がするだけさ。 ~新創世記より~
分かった気がするだけさ。

 シンジ:僕の父さんって、どんな人ですか?

 加持:こりゃまた唐突だな。 葛城の話かと思ってたよ。

 シンジ:加持さん、ずっと一緒にいるみたいだし。

 加持:一緒にいるのは副司令さ。 君は自分の父親のことを聞いて回っているのかい?

 シンジ:ずっと、一緒にいなかったから…

 加持:知らないのか。

 シンジ:でも、このごろ分かったんです、父さんのこといろいろと。 仕事のこととか。 母さんのこととか。だから…

 加持:それは違うなぁ。 分かった気がするだけさ。 人は他人を完全には理解できない。 自分自身だって怪しいもんさ。 100パーセント理解し合うのは、不可能なんだよ。 ま、だからこそ人は、自分を、他人を知ろうと努力する。 だから面白いんだなぁ、人生は。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾八話 命の選択を

 自分のペルソナを一人で理解することは難しい。 けれども人間関係のなかで理解するなら、それは易しい。 鏡が手に入るからだ。 相手のペルソナを通して自分のペルソナを見ることができる。 ところが、両親を鏡にしたとき、そこに映るのは、弱虫で、卑怯で、臆病で、ずるい、とても醜い自分のペルソナなのだ。 ふつうはその醜さを相手のペルソナのせいにするものだから、自分のペルソナをかえりみる人はほとんどいない。 たとえば、誰かの欠点を見つけてなじることは誰でもやっているけれど、まったく同じ欠点が自分にもあることは棚に上げてしまうものだ。 そういう性癖がなくなるまでは、相手を分かろうとしたとは言えないのである。

バルディエルの問い ~新創世記より~
なぜ分かろうとしないの?

 レイ:碇君、どうしてあんなことしたの?

 シンジ:許せなかったんだ、父さんが。 僕を裏切った父さんが。 せっかくいい気持ちで父さんと話ができたのに、父さんは僕の気持ちなんか分かってくれないんだ。

 レイ:碇君は分かろうとしたの? お父さんの気持ちを。

 シンジ:分かろうとした。

 レイ:なぜ分かろうとしないの?

 シンジ:分かろうとしたんだよ!

 レイ:そうやって、いやなことから逃げているのね。

 シンジ:いいじゃないか!いやなことから逃げ出して、何が悪いんだよ!

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾九話 男の戰い

 なぜ分かろうとしないの?―これが太陽回帰が起こるときに突き付けられる“バルディエルの問い”だ。

太陽回帰33(Solar Return 33)
太陽回帰33

 太陽回帰が起こる33歳の大厄は31-33歳の三年間。 それまでに都会生活に別れを告げて故郷に帰った人たちが、父親または母親のペルソナの成り立ちを分かろうとしたら、こんな両親の姿が見えてくる。

昏睡状態の豚 ~新創世記より~
昏睡状態の豚

 千尋:お父さん、帰ろう!帰ろう、お父さん。 ヒッ、ウワーッ!

 父親:ブヒィー!

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 ここで体験する心象風景は宮崎駿の『千と千尋の神隠し』でおなじみの場面だ。 両親は、オーバー30の壁を越えることに失敗しているので、すでに人間ではなく昏睡状態(こんすいじょうたい)の豚になっている。 豚と意志の疎通なんかできるわけがないのだけれど、いちおう人間の姿をして人間の言葉を話すので、「僕の気持ちを分かってくれない」という苛立ちを抱えてしまうのだ。 33歳の大厄からはその葛藤と対峙することになる。 ここで覚悟しなければならないのは、自分も両親と同じペルソナをかぶっているわけだから、そのままいけば自分も豚になるということだ。 ここが“神隠しの世界”の入口になっていて、昏睡状態の豚になる人たちの生態を分かろうとしなければ、その世界から帰れなくなる。 これが掟であり、このあと42歳の大厄に待っている最終試験をパスするまで、その呪いは解けない。

神隠しの世界の最終試験 ~新創世記より~
神隠しの世界の最終試験

 湯婆婆:この中から、お前のお父さんとお母さんを見つけな。 チャンスは一回だ。 ピタリと当てられたら、お前たちは自由だよ。

 千尋:おばあちゃん、ダメ。 ここには、お父さんも、お母さんも、いないもん。

 湯婆婆:いない? それがお前の答えかい?

 千尋:うん。

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 釈迦は豚の生態を分かろうとしなかったので、神隠しの世界にそのまま居残ることになった。 それが小乗仏教の“悟り”なのである。 彼の場合、29歳で故郷を飛び出したそうだから、精神年齢が低いまま神隠しの世界に迷い込んだのが仇(あだ)になったのかもしれない。 ふつうは、この世界の入口なんかに足を踏み入れないのだけれど、世の中には神隠しに遭う人が何人かいて、おそらく諸君もその一人なのだとおもう。 このサイトはそういう人たちを対象に発信している。 なぜ分かろうとしないの?  お察しのとおり、この『エヴァンゲリオン』に描かれている車両は、宮崎駿によって“海原電鉄(うなばらでんてつ)”と名付けられている電車。 この電車に乗った人たちが神隠しの世界に迷い込むのだ。 海原電鉄  こうして神隠しの世界に迷いこんだとき、両親がどうやって昏睡状態の豚になったのかを理解できると、自分がどのようにペルソナをかぶり、どうやって本心を偽ってきたのかも理解できる。 そうして自分のペルソナの成り立ちが分かれば、心の解放が起こるだろう。 すると、たとえば25歳の厄年でマリーと別れたときの“心のしこり”も解放できるようになっているはずだ。

 俺を見捨てた女を
 恨んで生きるより
 幼い心に秘めた
 むなしい涙の捨て場所を
 さがしてみたい

 作詞:谷村新司 作曲:堀内孝雄『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)

 つまり、まず手始めに両親を投射の対象にして自分の心を解放する。 それができたら、すでに自分のペルソナの醜さを相手のペルソナのせいにする性癖を克服しているから、直接、相手と面と向かって会わなくても自分の心を観察できるようになっている。 そこからは両親以外の豚を投射の対象にして、豚の生態と自分の心をより深く観察していくのだ。 ペルソナを身に着けると、そのペルソナが自分の思い通りに他人に映っているかどうかを常に気にすることになる。 ところが自分の思い通りになんかいくわけがないから、そこに怒りや恨みが生まれるし、当然、他人の身に着けているペルソナに対する嫉妬も生まれる。 それが原因で過去に犯してきた過ちを後悔するあまり、自分を責めるようにもなっている。 そういう幼い心に秘めたむなしい涙―すなわち過去の“心のしこり”を投射の対象にして、心の整理をはじめるのだ。 それがペルソナを脱ぎ捨てるということである。 この心の整理は、ちょっとばかり心に苦い良薬だ。 『千と千尋の神隠し』では“ニガダンゴ”として描かれている。

ニガダンゴ ~新創世記より~
ニガダンゴ

 千尋:どうしよう…ハクが死んじゃう。

 釜爺:からだの中でなにかが生命(いのち)を食い荒らしとる。

 千尋:からだの中?

 釜爺:強い魔法だ。 わしにはどうにもならん。

 千尋:ハク、これ河の神さまがくれたおダンゴ。 効くかもしれない、食べて。 ハク、口をあけて! ハク、お願い、食べて。 ほら、平気だよ。

 釜爺:そりゃあ、ニガダンゴか?

 千尋:あけて、いい子だから…大丈夫、飲み込んで!

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 神隠しの世界では“超常的能力”を身に着けることもできる。 たとえば気功法や密教ヨーガや修験道の教えている行法がその近道だ。 それは考えうるかぎり地上最強のペルソナである。 だから最初は、魔女に弟子入りして、その道に入ろうとしてしまう。 魔女と契約を交わしたら、ニガダンゴを食べなければ、“魔女の契約印”を吐き出すことはできない。

魔女の契約印 ~新創世記より~
魔女の契約印

 釜爺:ハクはな…千と同じように突然ここにやって来てな。 魔法使いになりたいといいおってな。 わしは反対したんだ。 魔女の弟子なんぞ、ロクなことはないってな。
 …聞かないんだよ。 もう帰るところはないと、とうとう湯婆婆の弟子になっちまった。 そのうちどんどん顔色は悪くなるし、目つきばかりキツくなってな。

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 人はなぜ神隠しの世界に迷い込むのか?―それは失ってはならぬもののためだ。 この世界に迷い込まなければ、行方不明の残り半分と再会できないからである。 この世界で手にするべきものは“悟り”でも“超常的能力”でもない。 “愛”なのだ。 男の魂がこの世界に迷いこむと、後を追うように女の魂もやってくる。

闇の中の呼び声 ~新創世記より~
闇の中の呼び声

 ハク:おじいさん、千はどこです。 何があったのでしょう。 教えてください。

 釜爺:お前、なにも覚えてないのか。

 ハク:きれぎれにしか思い出せません。 闇の中で千尋が何度もわたしを呼びました。 その声を頼りにもがいて、気がついたら、ここに寝ていました。

 釜爺:そうか、千尋か。 あの子は千尋というのか。 いいなあ、愛の力だなあ。

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 神隠しの世界に迷い込んだときから、男の魂は闇の中で女の魂の呼び声を聞くことになる。 私の場合は、砂漠の女と出会った高校の教室に忘れ物をしている夢を何度も観ることになった。 砂漠の女は、二人が再会する時と場所を17歳のときに告げてくれている。 けれども、それは神隠しの世界に迷い込み、ニガダンゴを食べなければ思い出せないのである。

思い出せないだけで。 ~新創世記より~
思い出せないだけで。

 銭婆:お前を助けてあげたいけど、あたしにはどうすることもできないよ。 この世界の決まりだからね。 両親のことも、ボーイフレンドの竜のことも、自分でやるしかない。

 千尋:でも、あの…ヒントかなにかもらえませんか? ハクとわたし、ずっと前に会ったことがあるみたいなんです。

 銭婆:じゃ、話が早いよ。 一度あったことは忘れないものさ。 思い出せないだけで。

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 男女の魂は一度会ったことを絶対に忘れてはいない。 ただ思い出せないだけだ。 したがって、このユーミンの『あの日にかえりたい』の定義は絶対的なものではない。

 青春のうしろ姿を人はみな忘れてしまう
 荒井由実『あの日にかえりたい』(1975)

荒井由実『あの日にかえりたい』(1975)
日本の恋と、ユーミンと。  収録アルバム
 『日本の恋と、ユーミンと。(2012)』
 南斗六聖拳の将・慈母星のユリアを導いていた預言者がユーミンだ。 彼女の作品はユリアの手引書になっているので、『Hello, my friend』(1994)のようなケンシロウの声を歌にした作品もある。 これは42歳の再会の意味をようやく理解した頃のケンシロウの心象風景を描いたものだ。  こういう代表曲なら私でも読み解けるのだけれど、彼女の歌には、ユリアじゃないと意味が分からないディープな作品もたくさんあるとおもう。 ある子供が自分に定められた運命を実現しようとするとき、それをどのように実現すべきかを示す預言書が、そのたった一人の子供のために創造されることがある―それが妙法蓮華経というものなのだ。 ケンの手紙  日本の大衆文化は、これから第65代北斗神拳伝承者・リュウを導くお祭り騒ぎを始めるのだけれど、それはあくまでも妙法蓮華経を通して行われる。 当然、ユーミンの後継者も現れるはずで、どんな人がどんな歌を創るのかすごく楽しみだ。 リュウ  そういうわけで、第64代北斗神拳伝承者・ケンシロウを導いていた井上陽水の対極の星座―それがユーミンだった。 彼女の星にあえて名前をつけるなら“南斗七星”と言ったところだろうか。

 だから、33歳の大厄における太陽回帰がはじまる前に、都会から両親のいる故郷に帰れば、こうなる可能性が残る。

 あの頃のわたしに戻ってあなたに会いたい
 荒井由実『あの日にかえりたい』(1975)

 とりわけ注意しなければならないのは、故郷に帰らずに神隠しの世界に迷い込むと“カオナシ”になることだろう。

カオナシの生態 ~新創世記より~
カオナシの生態

 千尋:あなたはどこから来たの? わたし、すぐ行かなきゃいけないところがあるの。

 カオナシ:ううっ…。

 千尋:あなたは来たところへ帰ったほうがいいよ。 わたしが欲しいものはあなたには絶対出せない。 おうちはどこなの? お父さんやお母さん、いるんでしょう?

 カオナシ:イヤだ…イヤだ。 さみしい…さみしい。

 千尋:おうちがわからないの?

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 『千と千尋の神隠し』に描かれているように、カオナシとは故郷の両親から逃げまわっていた人たちのことなのだ。 彼らは元の世界への帰り道が分からなくなってしまう。 でも、いまならまだ、諸君は故郷に帰れる。 帰りなさい―すべてが手遅れになる前に。 決してカオナシになってはいけないよ。

耐えて機会を待つんだよ。 ~新創世記より~
耐えて機会を待つんだよ。

 ハク:これからどうするか話すから、よくお聞き。 ここにいては必ず見つかる。 わたしが行ってごまかすから、そのすきに千尋はここを抜け出して…。

 千尋:イヤッ、行かないで。 ここにいてお願い。

 ハク:この世界で生きのびるためには、そうするしかないんだ。 ご両親を助けるためにも。

 千尋:やっぱり豚になったの夢じゃないんだ。

 ハク:ジッとして。
 騒ぎが静まったら、裏のくぐり戸から出られる。 そこにボイラー室の入口がある。 火をたくところだ。 中にカマジイという人がいるから、カマジイに会うんだ。

 千尋:カマジイ?

 ハク:その人にここで働きたいって頼むんだ。 断られてもねばるんだよ。 ここでは仕事を持たない者は、湯婆婆に動物にされてしまう。

 千尋:湯婆婆って?

 ハク:会えばすぐにわかる。 ここを支配してる魔女だ。 イヤだとか帰りたいとか言わせるようにしむけてくるけど、働きたいってだけ言うんだ。 つらくても耐えて機会を待つんだよ。 そうすれば湯婆婆も手が出せない。

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 また“神隠し”というくらいだから、この世界には一般社会に足を突っ込んだまま入ってはいけない。 “娑婆(シャバ)の渡世(とせい)からきっぱり足を洗う”のが正解だ。 常識に逆行するかもしれないけれど、そんなものは、この世界では通用しない。 そうしないと海原電鉄の幽霊になってしまう。 海原電鉄の幽霊  娑婆の渡世からきっぱり足を洗って、夢に呼ばれるときが来るまで、つらくても耐えて機会を待つのである。 この世界では、最初の洗礼として、「天職に就かせてください!」とアホみたいに叫び続ける勇気を試される。 それは、ペルソナを維持するためではなく、本当の自分を生きたい、という魂の叫びだ。 この世界で生きのびるには、そうするしかないのである。  

 たそがれには彷徨う街に
 心は今夜もホームにたたずんでいる
 ネオンライトでは燃やせない
 ふるさと行きの乗車券

 中島みゆき『ホームにて』(1977)

 海原電鉄の幽霊は、25歳の厄年を過ぎた頃に“ふるさと行きの乗車券”を手にした人たち。 ところが、中途半端をしてネオンライトのある街で彷徨っているため、心だけが海原電鉄に乗っている。 そうすると自分の片割れと待ち合わせている駅が思い出せなくなってしまうのだ。 そのうち37歳の厄年までにラジャスの幸福をつかんで魂の旅から降りてしまう。 彼らが六つ目の沼の底駅にたどり着く前に降りていくのは、その隠喩なのだ。 近ごろは、再会を果たして帰ってくる男女がいなくなったので、戻りの電車は廃線になったらしい。

ふるさと行きの乗車券 ~新創世記より~
ふるさと行きの乗車券

 リン:電車のキップじゃん。 どこで手に入れたの、こんなの。

 釜爺:四十年前の使い残りだ。 いいか、電車で六つ目の「沼の底」という駅だ。

 千尋:沼の底?

 釜爺:そうだ。 とにかく六つ目だ。

 千尋:六つ目ね。

 釜爺:まちがえるなよ。 昔は戻りの電車があったんだが近ごろは行きっぱなしだ。 それでも行くかだ。

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 一般社会とはペルソナを身につけなければ生きていけない人たちの世界だ。 だから、そこで生きている人たちとは、一旦離れなければ、またペルソナを身に着けようとしてしまう。 そのため、神隠しの世界に迷いこむときには、『千と千尋の神隠し』の冒頭の場面にあるように、お別れの儀式が待っている。

お別れの花束 ~新創世記より~
お別れの花束

 千尋:ああー、お母さん。 お花しおれてっちゃった。

 母親:あなた、ずーっと握りしめてるんだもの。 おうちについたら水切りすれば大丈夫よ。

 千尋:初めてもらった花束がお別れの花束なんて悲しい。

宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 神隠しの世界に入って、ペルソナを脱ぎ捨てはじめたら、少しずつ自分の言葉を取り戻すことになる。 あいかわらず親友たちが自分に嘘をついて生きているのに、いつのまにか自分は自分の言葉に嘘をつけなくなっていくのだ。 自分の何気ない言葉が親友たちの懸命に築き上げている虚構を鋭く突き刺すことに気づくだろう。 ヤマアラシのジレンマだ。

 せめて一夜の夢と
 泣いて泣き明かして
 自分の言葉に嘘は
 つくまい 人を裏切るまい

 作詞:谷村新司 作曲:堀内孝雄『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)

 諸君は、それまでの親友たちとの思い出を裏切り、自分と同じ言葉を話す“ほんとの友”を探し始めるに違いない。 遠くで汽笛を聞きながら。 ここまできたら自由を知るまで、あと一歩だ。

アリス『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)
Alice5  収録アルバム
 『ALICE V(1976)』
 『遠くで汽笛を聞きながら』は、作詞を手がけた谷村新司の代表作『いい日旅立ち』(1978)と対になって、33歳大厄の入口と42歳大厄の出口を描いている。 こういう“入口・出口シリーズ”を創る預言者は、意外にたくさんいるから、夜空に星を見つけるつもりで探してみるといい。 谷村新司の星は、やっぱり昴(すばる)なんだろうなあ。

 32歳のレリエルの試練を迎えて、やさしさに包まれたなら、ひとつの可能性が生まれる。 心の奥にしまい忘れた大切な箱をひらくのは、そのときなのだ。

 小さい頃は神さまがいて
 毎日愛を届けてくれた
 心の奥にしまい忘れた
 大切な箱 ひらくときは今

 荒井由実『やさしさに包まれたなら』(1974)

 それは自分の言葉を回復しはじめるからである。 別の言い方をするなら、本当の自分―インナーチャイルド―が目覚めるからである。 目の前に―何かを作り、何かを育てる―独創の可能性が開かれていることに気づくだろう。

何かを作る、何かを育てる ~新創世記より~
何かを作る、何かを育てる

 加持:そうだ、一つ、いいものを君に見せよう。

 シンジ:スイカ…ですか?

 加持:ああ、可愛いだろう? 俺の趣味さ。 みんなには内緒だけどな。 何かを作る、何かを育てるのはいいぞ。 いろんな事が見えるし、分かってくる。 楽しい事とかな。

 シンジ:辛い事もでしょ。

 加持:辛いのは…嫌いかい?

 シンジ:好きじゃないです。

 加持:楽しい事、見つけたかい?

 シンジ:…

 加持:それもいいさ。 けど、辛い事を知っている人間のほうがそれだけ他人(ひと)に優しくできる。 それは弱さとは違うからな。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾七話 四人目の適格者

 自分にしか創造できないこと…何もかもが確立されきった世の中に、そんなものがあるとは思えなかった。 でも、今、目の前に、その可能性が開けているのだ。 あとは飛び込むか、飛び込まないか。 それだけの問題になっている。 インナーチャイルドの声が聞こえる…「確立の中を攻撃しろ。それも後悔のないようにな」。 それが使徒ゼルエルの試練だ。

ゼルエルの試練 ~新創世記より~
ゼルエルの試練

 加持:シンジ君、俺はここで水を撒くことしかできない。 だが、君には君にしかできない、君にならできることがあるはずだ。 誰も君に強要はしない。 自分で考え、自分で決めろ。 自分が今、何をすべきなのか。 ま、後悔のないようにな。
庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾九話 男の戰い

 今の諸君には何の技能も手づるもない。 けれども、レリエルの試練でやさしさに包まれるとき、自分を導いている神聖な何かが自分の中に存在することを知るはずだ。

 カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
 やさしさに包まれたなら きっと
 目にうつる全てのことはメッセージ

 荒井由実『やさしさに包まれたなら』(1974)

 不安が何度も脳裏をかすめるだろう。 「もうイヤだ、ふつうの男の子に戻りたい」…そんなことを考えるかもしれない。 でも、目にうつる全てのことがメッセージを発している。 「やるなら今しかねえ、これは男の戰いだ!」…たしかに、これは男の人生最大の賭けである。 覚醒  そのメッセージを信じて、娑婆の渡世からきっぱり足を洗ったとき。 そこに自由が待っている。 職業、肩書き、資格などの一般社会で役に立ちそうなものは、すべて失ってしまったのに、不思議と気分は雲の上の蒼天のように爽快だ。 そのとき諸君は、33歳夏を迎えていることだろう。 ここまでこれたら、もうガイドはいらなくなっているはずである。 この人生最大の賭けに勝ったときの凱歌(がいか)が長渕剛の『しゃぼん玉』(1991)だ。

バベル語の詩31 ~ 新詩篇より ~
 ひりひりと傷口にしみて 眠れなかったよ
 泣きっ面にしょんべん ひっかけられた夜
 薄情な男だと 夜を一枚ひんめくりゃ
 ぐずぐずしてちゃいけねえと 照れずに思えた

 つまらぬこだわりは 身を縮めるだけだった
 ほんの一瞬でも お前を愛せてよかった
 枯れ果ててしまっても 温もりだけは残ったよ
 妙に悲しくていさぎよくて 本当に気持ちよかったよ

 淋々と泣きながら はじけてとんだけど
 もっと俺は俺で ありますように
 いったい俺たちは ノッペリとした都会の空に
 いくつのしゃぼん玉を 打ち上げるのだろう?

 きしりきしりと 横っ腹が痛かった
 馬鹿っ面ぶら下げて 上等だとひらきなおった
 人生が少しだけ うるさくなってきたけど
 逃げ場所のない覚悟が 夢に変わった

 帰りたいけど帰れない もどりたいけどもどれない
 そう考えたら俺も 涙が出てきたよ
 くじけないで なげかないで うらまないでとばそうよ
 あの時笑って作った しゃぼん玉のように

 淋々と泣きながら はじけてとんだけど
 もっと君は君で ありますように
 いったい俺たちは ノッペリとした都会の空に
 いくつのしゃぼん玉を 打ち上げるのだろう?

 長渕剛『しゃぼん玉』(1991)

 しゃぼん玉みたいにはじけて“ぷっつん”しないと、この賭けには勝てないのだ。 この後に神隠しの世界で体験することは、フランスの精神医学者エレンベルガーによって、「創造の病(Creative Illness)」と名付けられている。 次の記事で創造の病の過程を簡単に説明して終わりとしよう。

長渕剛『しゃぼん玉』(1991)
JAPAN  収録アルバム
 『JAPAN(1991)』
 『とんぼ』と『しゃぼん玉』が、“炎”の預言者・長渕剛の“入口・出口シリーズ”。

ケンシロウ 【世紀末救世主伝説―強敵たちの列伝】

ザ・リーサルウェポンズ『80年代アクションスター』(2020.2)
Back To The 80's  収録アルバム
 『Back To The 80's』(2020.2)

 2020年2月26日--ついに賞金稼ぎのアインが動き出した。 グローブがトレードマークのアメリカからやって来る男―そいつがアインである。 賞金稼ぎのアイン  この時代の命題は愛のレジスタンスの使徒に選ばれた諸君を1Q84年に連れて行くこと。 というのは、諸君が生まれる以前の1984-1990年には、愛のレジスタンスのメンバーのために創造されたパッケージが幾つも存在するからだ。 80年代というのは、時空が歪んでいた時代で、『北斗の拳』を筆頭に、予言的メッセージを含んだ作品がたくさん創造されていた時代なのである。 この『80年代アクションスター』を収録したアルバムのタイトル『Back To The 80's』が示しているように、その1Q84年の案内役の一人がアインというわけだ。
 そしてこれは、1Q84年製パッケージのひとつ、チェッカーズの『Song for U.S.A.』(1986)のPVである。 このPVはこんな感じで始まるのだけれど… Song for U.S.A.日本版  ここにある「星」の国とは20世紀アメリカのことだ。 そして、21世紀に「星」の国の役割を果たすことになるのが、この日本なのである。 1970年代から段階的にその引き継ぎの準備が進められてきていて、いよいよ本格的にバトンが引き渡される運びとなった。 そこでショウザやアインやケンシロウが姿を現し始めたというわけである。 この『Song for U.S.A.』は「アメリカの最後の夢」を日本に託しにくる使者が現れたときに開くパッケージになっていて、その使者がアインなのだ。 アインの加入  現時点の彼は、コミックソングみたいなのを歌っているけれど、そのうちバットに説得されて、我々のレジスタンスの仲間になってくれる男だ。 アインとバット  たしかに、このまま終わらせるには惜しいキャラクターの男である。 天帝リンとルイ  この絵に描かれている彼女たちは、現在、アメリカと日本に離れて存在しているカウンターカルチャーの女神のメタファー--双子の天帝リンとルイ。 Radioが壊れかけた1990年からずっと、地底に幽閉されたり、行方不明になっていた彼女たちを救い出し、分かれていた天帝を一つにするリーサルウェポン(最終兵器)が、アインの全身全霊の拳ということになっている。 アインのリーサルウェポン  その大役を果たし終えたアインは、日本の北斗神拳伝承者ケンシロウ(すなわち私なんだけど…)にカウンターカルチャーのバトンを手渡す。 アインのバトン  こうして日本が、アインの…いやアメリカのカウンターカルチャー魂を受け継ぐのだ。 これが現代の黙示録『北斗の拳』に記されている預言の筋書きらしい。 アメリカの魂  今このサイトにやってきている諸君は、このカウンターカルチャーのルネサンス運動“愛のレジスタンス”において何らかの宿星を背負うために選ばれた者たちである。 人が背負う宿星は、ケンシロウの負っている北斗七星のような最高級の星座ばかりではない。 アインのような一級の流れ星もあれば、蛍の光のように小さな名もなき二級の宿星も用意されている。 どれも等しくかけがえのない星たちだ。 ただし、一歩間違えば、屑星の宿星を背負ったことにも気づかない仏陀(『北斗の拳』ではカイオウ)のようなアホになってしまうだろう。 だから諸君には、名誉ある宿星の一つをその手にしっかりとつかんでいただきたい。 それがチェッカーズの『Song for U.S.A.』(1986)に込められていたメッセージなのだ。 Song for U.S.A.  ここまで説明すれば、きっと、この歌の意味も分かるだろう。 ご存知、DA PUMPの『 U.S.A.』(2018)である。  20世紀のアメリカが世界中に蒔いてくれた夢の種を、21世紀に実らせるのは私たちだ。 アインのリーサルウェポン…その目でしかと見届けよ! (2020.03.13)
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2020年04月25日

オーバー30とは何か4

レコード盤 ヤマアラシのジレンマ

 人間関係を持つことは自分とその周囲の出来事のあいだに意味を立ちあげる。 その意味を自分の目と耳で確かめることが真実を学ぶということだ。 ところがそうしようとすると、マグルたちからは煙たがられる。 これが「ヤマアラシのジレンマ」である。

『海辺のカフカ』にみるヤマアラシのジレンマ
 「だからね、俺が言いたいのは、つまり相手がどんなものであれ、人がこうして生きている限り、まわりにあるすべてのものとのあいだに自然に意味が生まれるということだ。 いちばん大事なのはそれが自然かどうかっていうことなんだ。 頭がいいとか悪いとかそういうことじゃないんだ。 それを自分の目を使って見るか見ないか、それだけのことだよ」

 「ハギタさんは頭がいいのですね」

 ハギタさんは大きな声で笑った。 「だからさ、こういうのは頭の良し悪しの問題じゃないんだ。 俺はべつに頭なんか良かねえよ。 ただ俺には俺の考え方があるだけだ。 だからみんなによくうっとうしがられる。 あいつはすぐにややこしいことを言い出すってさ。 自分の頭でものを考えようとすると、だいたい煙たがられるものなんだ」

村上春樹『海辺のカフカ』(2002) 第20章

 村上春樹の『海辺のカフカ』(2002)の主人公は15歳。 このヤマアラシのジレンマに直面した少年を描いた小説になっている。

 君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。 なにがあろうとさ。 そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。 そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。 わかった?
 村上春樹『海辺のカフカ』(2002) カラスと呼ばれる少年

 ヤマアラシのジレンマに真向勝負を挑むと、ほんとうにタフであることの意味を知ることができる。 そうする以外に、インナー・チャイルドがこの世界を生きのびていく道はない。 その試練が15歳から始まり、このような疑問が浮かんでくるようになる。

ヤマアラシのジレンマの葛藤
 どうしてもわからないんだ。 なぜ誰かを深く愛するということが、その誰かを深く傷つけるというのと同じじゃなくちゃならないのかということがさ。 つまりさ、もしそうだとしたら、誰かを深く愛するということにいったいどんな意味があるんだ? いったいどうしてそんなことが起こらなくちゃならないんだ?
村上春樹『海辺のカフカ』(2002) 第43章

 この試練に対処する行動にはいくつかのパターンが認められ、それを五つの類型にまとめたものが『新世紀エヴァンゲリオン』なのだ。

フォース・チルドレン ~新創世記より~
フォース・チルドレン

 シンジ:どうしてここが?

 ケンスケ:勘、ってやつだよ。 ここんとこ、何十人、っていう同級生を見送ってきたんだ。

 トウジ:碇が居らんのやったら、いずれわしらもこの町から出て行かんならんようになるやろう。 せやけど、わしら、なにもいわれへん。 EVAの中で苦しんでる碇の姿、見てるからなあ。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第四話 雨、逃げ出した後

 おそらく14歳の頃に出会ったような友だちは、それから二度とできなかったはずである。 そのうちの一人は、一緒にいると、なぜか懐かしい匂いがする男(あるいは女)。 もう一人はその親友だ。 彼らが四番目のタイプの選抜候補者たち--すなわちフォース・チルドレンである。

 彼らの役割は特命添乗員。 『千と千尋の神隠し』の世界の入り口までの道案内をしてくれる。 ただし、こういう形で。

バルディエルの試練 ~新創世記より~
バルディエルの試練

 ゲンドウ:シンジ、なぜ戦わない!?

 シンジ:だって、人が乗っているんだよ、父さん!!

 ゲンドウ:構わん。 そいつは使徒だ。 我々の敵だ。

 シンジ:でも…でも、できないよ!…助けなきゃ…人殺しなんてできないよ!!

 ゲンドウ:おまえが死ぬぞ!

 シンジ:いいよ、人を殺すよりはいい!

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾八話 命の選択を

 きっと君たちは15歳を過ぎた頃から別々の道を歩むことになったはずだ。 それから20代後半になって再会したときには、彼らのインナー・チャイルドは知らないうちに死んでしまっていたことだろう。 得体の知れないウイルスに感染したかのように、彼らはもう本当の夢には関心を示さない。 その秘密が19歳の厄年にある。 出生時と同じ形の月を見ることのできるメトン周期が19年。 そのとき月は、我々を人生の岐路に立たせるのだ。

メトン周期(Metonic cycle)
メトン周期

 人は16歳になると少年から大人に変わる。 その出来事は本当の夢を忘れることに等しい。 それは人々がインナー・チャイルドの声を心から閉め出しはじめるからだ。 その声を取り戻す挑戦を始めるのが19歳の厄年なのである。

インナー・チャイルドの声
 「地球上のすべての人にはその人を待っている宝物があるのです」と彼の心は言った。 「私たち人の心は、こうした宝物については、めったに語りません。 人はもはや、宝物を探しに行きたがらないからです。 私たちは、子供たちにだけ、その宝物のことを話します。 その後は、人生をそのあるべき方向に、つまり、それ自身の宿命へと進ませるだけです。
 でも不幸なことに、ごくわずかの人しか、彼らのために用意された道―その人の背負うべき宿星とその幸せに続く道―を歩もうとはしません。 ほとんどの人は世界を不安でたまらない場所だとおもっているのです。 そして、そういう見方をすることによって、世界は本当に恐るべき場所に変わってしまいます。 そこで、私たち人の心は、ますます厳しいことを言えなくなっていくのです。 私たちが沈黙することは決してありませんが、言葉を聞かせないほうがよいと思い始めます。 “心に従う気がないのだから、人々を苦しめないほうがよいのだ”と」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 ちょうど27歳になる頃から、諸君は得体の知れない焦りを感じてきたのではないかとおもう。 それは使徒レリエル(Leliel)の仕業だ。 土星回帰のとりわけキツい影響の一つは、インナー・チャイルドの声が増幅されて聞こえてくること。 彼は抑圧してきた“もう一人の自分”であり、彼こそが“本当の自分”なのだ。 本当の自分の声がここぞとばかりに話しかけてくる。 それがレリエルの試練である。 この試練を乗り越えないかぎり、インナー・チャイルドに明日はない。 ところが、フォース・チルドレンは その声に耳を傾けない。 というのは、すでに19歳の厄年で道を踏み外しているからだ。 驚くなかれ、星は何でも知っている。

レリエルの試練1 ~新創世記より~
レリエルの試練1

 シンジ:誰?

 リトル・シンジ:碇シンジ。

 シンジ:それは僕だ!

 リトル・シンジ:僕は君だよ。 人は自分の中にもう一人の自分を持っている。 自分と言うのは常に二人でできているものさ。

 シンジ:二人?

 リトル・シンジ:実際に見られる自分とそれを見つめている自分だよ。 碇シンジと言う人物だって何人もいるんだ。 君の心の中にいるもう一人の碇シンジ、葛城ミサトの心の中にいる碇シンジ、惣流アスカの中のシンジ、綾波レイの中のシンジ、碇ゲンドウの中のシンジ。 みんなそれぞれ違う碇シンジだけど、どれも本物の碇シンジさ。 君はその他人の中の碇シンジが恐いんだ。

 シンジ:他人に嫌われるのが恐いんだよ!

 リトル・シンジ:自分が傷つくのが恐いんだよ。 悪いのは誰だ?

 シンジ:悪いのは父さんだ! 僕を捨てた父さんだ! …悪いのは…自分だ。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾六話 死に至る病、そして

 インナー・チャイルドの死の理由は、この声を聞くことを拒絶することにある。 他人から見られている自分とそれを見つめている自分。 前者がペルソナであり、後者はインナー・チャイルドだ。 人は他人に嫌われるのではないかと恐れるために、ペルソナとの自己同一化を図り、その臆病さのゆえに、19歳の厄年以降、インナー・チャイルドを眠らせてしまう。 これが人々が他人に自分をよく見せることに血道をあげているカラクリなのだ。 かくしてインターネット上では、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどで幾つものペルソナのパレードが見られる。 彼らは自分の被っている如何なるペルソナをも脱ぎ捨てようとはしない。

レリエルの試練2 ~新創世記より~
レリエルの試練2

 シンジ:嫌だ!聞きたくない!

 リトル・シンジ:ほら、また逃げてる。 楽しいことだけを数珠のように紡いで生きていられるはずが無いんだよ、特に僕はね。

 シンジ:楽しいこと見つけたんだ。 楽しいこと見つけて、そればっかりやってて、何が悪いんだよ!

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾六話 死に至る病、そして

 ペルソナとの自己同一化は潜在意識の奥深くにある幼少期のトラウマから生じる。 ちょっと考えてみてほしい。

 諸君が最初に嫌われることを恐れた相手は誰だろうか?
 諸君が最初に互いに傷つけあうことを恐れた相手は誰だろうか?

 簡単なことだ。 それは父親と母親である。 そこに例外はない。 人々はその恐れを引きずって生きている。 とかく人生は選択の連続だけれど、彼らはいかなる選択をも間違えてしまうことだろう。 なぜなら、その恐れを抱えているかぎり、人生の決断の鍵は、彼ら自身ではなく、両親や別の誰かが握ることになるからだ。 思春期の少年少女は両親の手でEVAに乗せられる。 この現象を最初の使徒襲来にちなんで「サキエル(Sachiel)の試練」と呼ぼう。

サキエルの試練 ~新創世記より~
サキエルの試練

 シンジ:父さん…なぜ呼んだの?

 ゲンドウ:おまえの考えている通りだ。

 シンジ:じゃあ僕がこれに乗ってさっきのと戦えって言うの?

 ゲンドウ:そうだ。

 シンジ:いやだよそんなの、何を今更なんだよ、父さんは僕がいらないんじゃなかったの?

 ゲンドウ:必要だから呼んだまでだ。

 シンジ:なぜ、僕なの?

 ゲンドウ:ほかの人間には無理だからだ。

 シンジ:無理だよそんなの…見たことも聞いたこともないのに、できるわけないよ!

 ゲンドウ:説明を受けろ。

 シンジ:そんな…できっこないよ…こんなの乗れるわけないよ!

 ゲンドウ:乗るなら早くしろ。でなければ帰れ!

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第壱話 使徒、襲来

 ご存知のように、サキエルの試練は生気を失うことを意味する。 早い話が、碇シンジはモルモットになったというわけだ。

 人の言うことにはおとなしく従う。 それがあの子の処世術じゃない?
 リツコ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第参話 鳴らない、電話

 彼は両親によって敷かれたレールの上を歩き始める。 そのレールから降りることは、両親に嫌われ、互いに傷つけあうことを意味する。 おまけに、それは公然と認められるレールなのだ。

 一つ言い忘れてたけど、あなたは人にほめられる立派なことをしたのよ。 胸を張っていいわ。
 ミサト『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐話 見知らぬ、天井

 そこで、レールから外れることは、自分が無価値になることだと感じるようになっていく。

EVAに乗った子供たち ~新創世記より~
EVAに乗った子供たち

 シンジ:違う。 僕に価値はない。 誇れるものがない。

 アスカ:だからEVAに乗ってる。

 シンジ:EVAに乗ることで、僕は僕でいられる。

 アスカ:EVAに乗ることで、私は私でいられる。

 シンジ:EVAに乗る前の僕には、何もなかった。 僕はEVAに乗っているからここにいられる。

 アスカ:他には何もないの。

 レイ:他には何もないもの。

 シンジ:僕には何もない。何もないんだ。

 「生きる価値が」

 シンジ:僕にはない。

 「…だから」

 シンジ:僕は、僕が嫌いなんだ。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 互いに傷つけあうことに対する恐れが最終的にこうした劣等感をもたらす。 つまり、その原因はヤマアラシのジレンマにあるのだ。

 ヤマアラシのジレンマか。身を寄せるほど相手を傷つける、こういうことか… あの子、ああいう言い方でしか自分の気持ちを伝えられないんだわ。
 ミサト『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第四話 雨、逃げ出した後

 少年少女は様々なやり方でこのジレンマに取り組む。 なかでもフォース・チルドレンは感性を麻痺させることでヤマアラシのジレンマと付き合う。 リツコがその成れの果てだ。

 潔癖症はね、辛いわよ。 人のあいだで生きていくのが。 「汚れた」と感じたとき、分かるわ…それが。
 リツコ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第壱拾四話 ゼーレ、魂の座

 背筋の凍りつくような悩ましい言葉が我々には少なくとも一つある。 「あんたなんか嫌い!」がそれだ。 そこでフォース・チルドレンは、マグルの仲間入りをするためにインナー・チャイルドの声を拒絶する。 そうすれば、当分のあいだは傷つかなくて済む。 それが彼らの処世術なのだ。 しかし、そのようなやり方はあまり長続きしない。

 あの人の事を考えるだけで、どんな…どんな陵辱にだって耐えられたわ! 私の体なんてどうでもいいのよ! でも、でもあの人は、あの人は…分かっていたのに…。 バカなのよ、私は。親子揃って大バカ者だわ! …私を殺したいのならそうして…いえ、そうしてくれると嬉しい…
 リツコ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾参話 涙

 EVAに取り憑かれた人の悲劇。 それは両親と同じ過ちを繰り返すことにある。 両親はインナー・チャイルドの“死に至る病”の媒介因子なのだ。 その病は、遅かれ早かれ、16歳までには誰もが伝染(うつ)される空気感染症になっている。 たとえ「自分らしく生きたい」と言ってみたところで、この病にかかると、結局は両親と同じ轍(わだち)を踏んでしまう。 声を失くした両親は、自分でも思いもよらないうちに、子供の抱えている恐れにつけこんでしまうのだ。 人々は、魂の転生を通じて、両親と同じ病を子供に伝染すことを繰り返す。 それがマトリックスの鉄の掟なのである。 われわれ東アジアの大乗仏教徒は、この負の連鎖を輪廻転生(Samsara)と呼んでいて、そこから抜け出す方法が一つだけある。 それがこの“心の観察”なのだ。

心の観察 ~新創世記より~
心の観察

 ミサト:ここは?

 「葛城ミサトの場合(PART1)」

 シンジ:―ミサトさんの心の中にいる僕の心―ですよ。

 ミサト:…と同時に―シンジ君の中にいる私の心―というわけね。

 シンジ:僕は僕を見つけるために、いろいろな人と触れ合わなければいけない。 僕の中を見つめなければいけない。 僕の中のミサトさんを見つめなければいけない。 ミサトさんは、何を願うの?

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾伍話 終わる世界

 人々は、互いに触れ合うことで愛を学ぼうとするわりには、お互いを知ることがほとんどできない。 それは誰もが持っている心の壁―A.T.フィールド(Absolute Terror Field:絶対的恐れによって形成される領域)―のせいだ。 生きとし生けるものの中で最も強固なA.T.フィールドを持っているのがシスであり、『新世紀エヴァンゲリオン』では、渚カヲルがそれにあたる。

 なんぴとにも侵されざる聖なる領域、心の光。 リリンもわかっているんだろ? A.T.フィールドは誰もが持っている心の壁だということを。
 カヲル『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾四話 最後のシ者

 傷つくことの痛みは心が感じる。 傷つけられる恐れも、また然り。 そこで、フィフス・チルドレン(五番目のタイプの選抜候補者)は、心の中に巣くっている情愛のすべてを消し去ろうとする。 心を捨てた男…そいつがやがてシスになるのだ。

 情愛から憂いが生じ、情愛から恐れが生ずる。 情愛を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
 仏陀『法句経―ダンマパダ―』第213章

 これがフィフス・チルドレンの処世術である。 恐れもなく、痛みもなく、悲しみもなく、どことなく超然としているけれど、その代わり、愛が心から欠落している。 心を捨ててしまったために、痛みと悲しみから愛を学ぶことができないのだ。 たとえ誰かに好意を抱いたとしても、互いに愛のぬくもりを分かち合うことはできない。 ゆえに、生きとし生けるものの中で最も強固なA.T.フィールドの持ち主といえる。

フィフス・チルドレン ~新創世記より~
フィフス・チルドレン

 カヲル:一時的接触を極端に避けるね、君は。 恐いのかい?人と触れ合うのが。
 他人を知らなければ、裏切られることも、互いに傷つくこともない。 でも、さびしさを忘れることもないよ。 人間はさびしさを永久になくすことはできない。 人は一人だからね。 ただ忘れることができるから、人は生きていけるのさ。
 常に人間は心に痛みを感じている。 心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる。 ガラスのように繊細だね。特に君の心は。

 シンジ:僕が?

 カヲル:そう。コウイに値するよ。

 シンジ:コウイ…?

 カヲル:好きって事さ。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾四話 最後のシ者

 フィフス・チルドレンは、たしかに永遠の少年ではあるけれど、年齢の割にはひどく世間知らずである。 というのは、痛みと悲しみを乗り越えた経験がないからだ。 彼は声に対して完全に耳を閉ざした男の典型なのである。 それは傷つかずに済むための近道―より手っ取り早く、安易で、誘惑に満ちている道―にすぎない。 そのうえ、その道は少しばかり見栄えのする猿たちをまゆつばものの成功で餌付けする。

 EVAは僕と同じ体でできている。 僕もアダムより生まれしものだからね。 魂さえなければ同化できるさ。 この弐号機の魂は、今みずから閉じこもっているから。
 カヲル『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾四話 最後のシ者

 心の表面下にあるうんざりするほどの苦しみから解放されるために、あらゆる努力がなされている。 しかしながら、そうした努力はことごとく悲劇に終わってしまう。 われわれには「そもそもの初めからそうなることは分かっているんだ」という小さな声が聞こえているかのようだ。 それでも痛みや悲しみをどうにか飲み込むことができたなら、ものごとの真相を見ることができる。 とはいえ、それは自分自身と他の誰かを真実で斬りつけて血まみれになることだ。 それゆえに人々はそうしたがらない。 それが失敗の理由である。 もしもそこに痛みと悲しみから逃げてもかまわないという言葉があれば、みずから閉じこもりがちな人々の胸を打つのは至極当然のことだろう。

 君は何を話したいんだい? 僕に聞いてほしいことがあるんだろう?
 カヲル『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾四話 最後のシ者

 フィフス・チルドレンは経験の片鱗(へんりん)もうかがえない詭弁(きべん)をもって人々の代弁者となる。 彼の言葉はネガティヴな感情を寄せ付けずに済む簡単な方法があることをほのめかすからだ。 その言葉を聞きかじっただけで信じてしまった人々は、あっという間に檻の中に閉じ込められてしまう。 フィフス・チルドレンもまた、人々の抱えている恐れにつけこんでしまう業(ごう)を持っている。

 心が煩悩(klesha)に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。
 仏陀『法句経―ダンマパダ―』第39章

 そのうえ、彼の信条は、あらゆる情愛を支配するもの、いかなる情愛にも微動だにせぬものだ。 他人の恐れにつけこむのが彼の宿命だとしても、善悪の判断が麻痺していれば、心が痛みを感じることはない。 そこで彼は、善悪の区別がつかなくなるように、心を麻痺させる。 さらにはそれを別の言葉にすりかえる -- それは“煩悩に汚されないこと”であり“善悪のはからいを捨てること”なのだと。 その実をいえば、この世から一切の情愛を抹殺することに彼の目標がある。

 アダム…われらの母たる存在…アダムより生まれしものはアダムに還らねばならないのか? 人を滅ぼしてまで。 …違う…これは…リリス!そうか、そういうことかリリン!
 カヲル『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾四話 最後のシ者

 しかしながら、彼の信条それ自体がゴリラのドラミングのような驕(おご)りにすぎないことを証明するときが来る。 彼は胸の底では、人々は麻痺ではなく愛によって救われること、それから彼自身の暴走をもはや止めることができないことを知っている。 そこで自らの暴走を止めるため、サード・チルドレンに倒されることをみずから選ぶことになる。 彼が最後に発見するのは血の十字架(bloody cross)--人類の背負った痛みと悲しみのシンボルなのだ。

血の十字架 ~新創世記より~
血の十字架

 シンジ:カヲル君…どうして…

 カヲル:僕が生き続けることが僕の運命だからだよ。 結果、人が滅びてもね。 だが、このまま死ぬこともできる。 生と死は等価値なんだ、僕にとってはね。 自らの死、それが唯一の絶対的自由なんだよ。

 シンジ:何を…カヲル君…君が何を言っているのか分かんないよ! カヲル君!

 カヲル:遺言だよ。 さあ、僕を消してくれ。 そうしなければ君らが消えることになる。 滅びの時を免れ、未来を与えられる生命体は一つしか選ばれないんだ。 そして、君は死すべき存在ではない。

 シンジ:…

 カヲル:君たちには未来が必要だ。 ありがとう。 君に逢えて、嬉しかったよ。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾四話 最後のシ者

 『新世紀エヴァンゲリオン』における最後の使徒タブリス(Tabris)とはシスのことなのである。 彼はジェダイのインナー・チャイルドを覚醒させるためだけに誕生してくる。

 僕は君に逢うために生まれてきたのかもしれない。
 カヲル『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾四話 最後のシ者

 というのは、サード・チルドレン(三番目のタイプの選抜候補者)は、本当の自分を見つけるために“客体”を必要とするからだ。

 僕は僕を見つけるために、いろいろな人と触れ合わなければいけない。 僕の中を見つめなければいけない。 僕の中のミサトさんを見つめなければいけない。
シンジ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐拾伍話 終わる世界

 この心の観察の技法は、哲学者ヘーゲルによって“自己意識の確立(The Satisfactions of Self-Consciousness)”と名付けられている。

『海辺のカフカ』にみる自己意識の確立
 『<私>は関連の内容であると同時に、関連することそのものである』

 「ふうん」

 「ヘーゲルは<自己意識>というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。 それが自己意識」

 「ぜんぜんわからないな」

 「それはつまり、今私があなたにやっていることだよ。 ホシノちゃん。 私にとっては私が自己で、ホシノちゃんが客体なんだ。 ホシノちゃんにとってはもちろん逆だね。 ホシノちゃんが自己で、私が客体。 私たちはこうしてお互いに、自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立しているんだよ。 行為的に。簡単に言えば」

村上春樹『海辺のカフカ』(2002) 第28章

 われわれは、お互いに自己と客体を交換し、投射しあって、自己意識を確立している。 『新世紀エヴァンゲリオン』は、この「自己意識の確立」をわかりやすく描いたアニメだ。 エヴァンゲリオン語録に置き換えてみよう。

自己意識の確立 ~新創世記より~
自己意識の確立

 シンジ:これは…何もない空間。 何もない世界。 僕のほかには何もない世界。 僕がよく分からなくなっていく。 自分がなくなっていく感じ。 僕という存在が消えていく。

 「何故?」

 ユイ:ここには、あなたしかいないからよ。

 シンジ:僕しかいないから?

 ユイ:自分以外の存在がないと、あなたは自分の形が分からないから。

 シンジ:自分の形…

 「自分のイメージ?」

 ミサト:そう。 他の人の形を見る事で、自分の形を知っている。

 アスカ:他の人との壁を見る事で、自分の形をイメージしている。

 レイ:あなたは、他の人がいないと自分が見えないの。

 シンジ:他の人がいるから、自分がいられるんじゃないか。 一人は、どこまで行っても一人じゃないか。 世界はみんな僕だけだ!

 ミサト:他人との違いを認識する事で、自分をかたどっているのね。

 レイ:一番最初の他人は、母親。

 アスカ:母親は、あなたとは違う人間なのよ。

 シンジ:そう、僕は僕だ。 ただ、他の人たちが僕の心の形を作っているのも確かなんだ!

 ミサト:そうよ。 碇シンジ君。

 アスカ:やっと分かったの?

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 まさしく的を射たり。 人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができる。 人は人間関係から離れて教訓を得ることはできない。 自己と客体は本当の自分を見つけるための不可欠の要素だ。 人間関係が絶対不可避の義務なのだ。 ところが、ご覧のとおり、仏陀の人間関係に残ったものは何もなかった。

 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。 すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。 みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。
 仏陀『法句経―ダンマパダ―』第353章

 言ってみれば、仏陀は自己について何もわかっていなかったのである。 彼は明らかな事実を見ようともしなかったのかもしれない。 東洋の瞑想の技法が「客体を無視して自己を投射する」というお粗末な自己完結に陥っている理由は、たぶん、こいつのせいだ。 それとは対照的に、サード・チルドレンは、媒介としての客体に自己を投射することによって、自分と他人を同時に理解する。 そうやって、誰もが持っている心の壁 -- A.T.フィールドを侵蝕(しんしょく)するのだ。

A.T.フィールドの侵蝕 ~新創世記より~
A.T.フィールドの侵蝕

 マヤ:初号機もA.T.フィールドを展開…位相空間を中和していきます!

 リツコ:いいえ、侵蝕しているのよ…

 ミサト:あのA.T.フィールドをいとも簡単に…

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第弐話 見知らぬ、天井

 誰もが自分に嘘をついて生きている。 人々は自分自身の薄っぺらな言い訳に盲目であり続けないかぎり、生きていくことができない。 インナー・チャイルドの声が聞こえないふりをしている後ろめたさは、どこへ行ってもつきまとうからだ。 そこで人々は長々とした言い訳をただただ繰り返す。 ところがサード・チルドレンは、インナー・チャイルドとの対話を通して、その言い訳に気づくことができる。

レリエルの試練3 ~新創世記より~
レリエルの試練3

 (レイ:お父さんの事、信じられないの?)

 シンジ:嫌いだと思う。でも今は分からない。

 (ゲンドウ:よくやったな、シンジ)

 シンジ:父さんが僕の名前を呼んだんだ。 あの父さんに誉められたんだよ!

 リトル・シンジ:その喜びを反芻(はんすう)して、これから生きていくんだ?

 シンジ:その言葉を信じたら、これからも生きていけるさ!

 リトル・シンジ:自分をだましつづけて?

 シンジ:みんなそうだよ、誰だってそうやって生きてるんだ。

 リトル・シンジ:自分はこれでいいんだ、と思いつづけてる。

 シンジ:でなければ生きていけないよ。 僕が生きていくには、この世界には辛い事が多すぎるんだ。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾六話 死に至る病、そして

 これが“投射”の能力だ。 彼が13歳のときに身につけたものである。 サード・チルドレンは、インナー・チャイルドとの対話を通して、まず手始めに自分の形成してきたA.T.フィールドの成り立ちを突きとめる。 こうして心のメスで自分自身の心の壁をズタズタに引き裂くのだ。 するとみずからの血を流しながらも、敵とみなしてきた使徒が実は恩寵(おんちょう)をもたらすことを知ることになる。

レリエルの試練4 ~新創世記より~
レリエルの試練4

 シンジ:ん?…水が濁ってきてる!? 浄化能力が落ちてきてるんだ! うっ!…生臭い!血?血の匂いだ! 嫌だ!ここは嫌だ!なんでロックが外れないんだよ! 開けて!ここから出して!ミサトさんどうなってるんだよ、ミサトさん!アスカ!綾波!…リツコさん…父さん…。 お願い、誰か、助けて…

 ここは嫌だ…一人はもう、嫌だ…

 保温も、酸素の循環も切れてる…寒い…。 だめだ、スーツも限界だ…。 ここまでか…もう、疲れた…何もかも…

 ……お母さん!?

 ユイ:もういいの? …そう、よかったわね。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 第拾六話 死に至る病、そして

 心の壁に風穴が開き、自分とその周囲の出来事のあいだに意味が立ちあがる。 一見すると複雑怪奇な運命のカラクリは、われわれに痛みと哀しみをもたらすだけではなく、愛のぬくもりも運んでくるのだ。 彼はあまりにたくさんの人々が見て見ぬふりをしているという現実を発見する。 この涙とともに…

『ダンス・ダンス・ダンス』にみるインナー・チャイルドの涙
 よくいるかホテルの夢を見る。

 夢の中で僕はそこに含まれている。 つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。 夢は明らかにそういう継続性を提示している。 夢の中ではいるかホテルの形は歪められている。 とても細いのだ。 あまりに細いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる。 その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。 そして僕はそこに含まれている。 そこでは誰かが涙を流している。 僕の為に涙を流しているのだ。

 ホテルそのものが僕を含んでいる。 僕はその鼓動や温もりをはっきりと感じることができる。 僕は、夢の中では、そのホテルの一部である。 そういう夢だ。

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』(1988) 第1章

 その呼び声に気づいてもらえたとき、インナー・チャイルドは涙で応える。 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公は32歳。 かぎりなく一握りの人だけが、その年齢でこの涙を体験することだろう。

 次に、サード・チルドレンは、投射の能力を周囲の友人たちに振り向けはじめる。 どこかしら欠けている自己の補完をはじめるのだ。

人類補完計画 ~新創世記より~
人類補完計画(The Instrumentality Project)

 ミサト:どうでもいいと思うことで、逃げてるでしょ?
 ―失敗するのが怖いんでしょ?
 ―人から嫌われるのが怖いんでしょ?
 ―弱い自分を見るのが怖いんでしょう?

 シンジ:そんなの、ミサトさんも同じじゃないか!

 ミサト:そうよ。私たちはみんな同じなのよ。

 リツコ:心がどこか欠けているの。

 アスカ:それが恐いの。

 レイ:不安なの。

 ミサト:だから、今、一つになろうとしている。

 アスカ:互いに埋め合おうとしている。

 レイ:それが補完計画。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 心の壁に風穴を開けることは、一人の男にとっては小さな一歩だけれど、人類にとっては偉大な一歩である。

 どうでもいいと思うことで、逃げてるでしょ?
 --失敗するのが怖いんでしょ?
 --人から嫌われるのが怖いんでしょ?
 --弱い自分を見るのが怖いんでしょう?

 ミサト『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 われわれの心は、こうした恐れのせいで劣等感だらけになっている。 人々の顔は、劣等感に負けないようにと、ありとあらゆるペルソナで覆い尽くされている。 われわれの人生は何層にも積み重ねられたペルソナのおかげで身動きできなくなっているのだ。 どんなに大量の精神安定剤も、その絶え間のない苛立(いらだ)ちから解放してはくれない。 その状況はわれわれが考えているほど簡単には解決できないのである。 そのうえ、その意味するところが何も分かっていない。 それ自体が基礎疾患である。

 心がどこか欠けているの。
 リツコ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996) 最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの

 サード・チルドレンが発見したのは、われわれに欠けている心を補完しあう方法だ。 それは唯一の解決策としての可能性を秘めている。 そしてそれが、現在、日本で推進されている人類補完計画(The Human Instrumentality Project)なのである。

ケンシロウ 【世紀末救世主伝説―強敵たちの列伝】

サカナクション『新宝島』(2015.9)
834.194  収録アルバム
 『834.194』(2019.6)

 2015年9月30日--『人類補完計画』は日本で発動した。 その幕開けを告げたのが、このサカナクションの『新宝島』である。

  次と その次と その次と
 線を引き続けた
 次の目的地を描くんだ
 宝島

 このまま君を連れて行くと
 丁寧に描くと
 揺れたり 震えたりした線で
 丁寧に描くと 決めていたよ

 Ichiro Yamaguchi『新宝島』(2015)

 『人類補完計画』は、精神世界の人たちが“Ascension(アセンション:次元上昇)”と呼んでいたものだ。 この計画は、人類がより高い次元に進化することを可能にするためのもので、その地図が日本で描かれてきた。

 それによって、新たな進化段階に達した人たち--いわゆる“ニュータイプ”のための新しい宗教が完成する。 カウンターカルチャーの黎明期にジョン・レノンが公言していたように、旧人類--いわゆる“オールドタイプ”のための古い宗教は、そのうち消えてなくなるだろう。

 で、いよいよ期待のニュータイプ世代--“ゆとり世代”が成長してきたから、「これから本格的な地図を描くぜ!」というのが、この歌の主意である。 ちょうどこのサイトが「次の目的地」になってるんだけど、歌の知名度の割には、たどり着いた人は少ない。 ゆとり世代は、少年少女の頃に『エヴァンゲリオン』や『ハリー・ポッター』をはじめとする優れたカウンターカルチャーを享受してきたはずなのに…ほんとにセンスがない。

  次も その次も その次も
 まだ目的地じゃない
 夢の景色を探すんだ
 宝島

 このまま君を連れて行くと
 丁寧に歌うと
 揺れたり 震えたりしたって
 丁寧に歌うと 決めてたけど

 Ichiro Yamaguchi『新宝島』(2015)

 << これから次々に歌を創造して、君を新宝島へ連れていく--夢の景色を探すんだ! >>

 …というのが、ここに込められたメッセージだったんだけど、その探求のヒントがPVにあった。 80年代風の演出になっていたのは、その時代に「夢の景色」が描かれていたからなのだ。
 旧人類の特徴は“夢”というものの本質を理解できないことにある。 「夢とは自分で思い描いて達成を目指すもの」という刷り込みが脳髄まで達しているらしく、いくら説明しても理解してもらえない。 そのため自由な時代の到来とともに、好き勝手なことをはじめた旧人類が、やがてみずから破滅行動を起こす。 それが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)に預言されているサード・インパクト後の世界だ。 2020年の現在から約10年後の地球は、こんな惑星と化すのだろうか。 サード・インパクト  この自由のもたらす問題に最初に直面したのがアメリカだった。 アメリカン・ドリームの果てにあったものは格差と貧困。 他人を出し抜いた者を勝者とするアメリカ社会は、セラピー犬の瞳から愛を感じるしかないほどまでに病んでいる。 われわれの日本も、バブル景気の崩壊した1990年代以降、格差を生まない社会を目指してきた矜持(きょうじ)を捨て、アメリカの後追いをしてきてしまった。 コロナ時代1  2020年2月に起こったコロナ・ウイルス騒動の際に、各国政府が経済活動や外出の自粛要請を発令した結果、失業者が増加。 上級国民(これはなかなかいいネーミングだった)から都合よく首を切られる奴隷国民(こちらは誰も言い出さなかったけれど、これが現実だった)の存在が、どこの国でも明るみに出た。 おかげで自由な社会のひずみが浮き彫りになり、アメリカでは、さっそく人種差別撤廃運動の形で不満が噴出したという。 かつては、こうした状況に恐慌が重なり、国内の不満を解消する手段としてナショナリズムがあおられ、最終的に第二次世界大戦に突入していったのである。 コロナ時代2  さらには「外出自粛要請が出されているのに不謹慎」という正義をかざす司刑隊も現れた(上図は『北斗の拳』に預言されていた「不謹慎厨(ふきんしんちゅう)」による「不謹慎狩り」)。 これは「欲しがりません勝つまでは」とかかげた戦時中の隣組の密告と同じ集団心理で、彼らは世が世なら平然と軍歌を歌える連中なのだ。 自分の頭でものを考えられない旧人類には、人類の破滅行動はこうした司刑隊の暗躍(あんやく)によって引き起こされてきた歴史が理解できないらしい。 平安は時とともに貧富階層の差を生み、同時に世は再び混迷の時代に向かっていた…『北斗の拳』に預言されていたように、旧人類による破滅行動の筋書きが見えてきたわけである。 コロナ時代3  自由の意味をはき違えた旧人類が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するイカレた時代。 現代はまさに、まともな奴ほどfeel so badな世界だ。 このサイトにたどりついた諸君は、おそらくまだ正気を保っているのだろう。 君らは実に運がイイぜ。

  Welcome to this crazy time
 このイカレた時代へようこそ
 君は tough boy
 まともな奴ほどfeel so bad
 正気でいられるなんて運がイイぜ
 You, tough boy

 TOM『Tough Boy』(1987)

 このアニメ『北斗の拳2』(1987-1988)のオープニング・テーマは、2000年代のcrazy timeに生きる諸君を黄金の80'sへと誘うために創造されたものだ。 ここが“新宝島”の入口になる。 もう、後戻りはできないぞ。 心して足を踏み入れるがいい。  We are living, living in the 80's. 永遠のロックランド--黄金の80'sへようこそ。 広義には『宇宙戦艦ヤマト』が放送を開始した1974年から、1996年のアニメ版『新世紀エヴァンゲリオン』の放送終了までが日本のカウンターカルチャーの黄金期にあたる。 その中心的な期間は1984年から1990年までのバブル期。 現代日本のかかえる問題が生じた原点の時代だ。 それは『北斗の拳』(1983-1988)の連載開始ではじまった『週刊少年ジャンプ』の黄金期とも重なる。 この中心的な期間は村上春樹によって“1Q84年”と名づけられた。 諸君の使命は、この黄金の80'sからイカレた時代の処方箋を持ち帰ることにある。  まず最初に挙げておきたいのが、井上陽水の『少年時代』なのだけれど、これはケンシロウが世の中に現れる時を預言した世紀末救世主伝説の歌になっている。

  夢が覚め 夜の中
 永い冬が 窓を閉じて
 呼びかけたままで
 夢はつまり 想い出のあとさき

 井上陽水『少年時代』(1990)

 永い冬にもたとえられる修業期間を終えたケンシロウが、夢に呼ばれている様子を読み取れるとおもう。 これはちょうど2020年8月の心象風景になっていて、ケンシロウは『北斗の拳』に預言されている奴隷国民を解放する蜂起をそこから始める。 怒り心頭に達した奴隷国民たちは、もう上級国民や司刑隊の言いなりにはならないだろう。 2020年2月からのコロナ・ウイルス流行のおかげで、ようやく機が熟したのである。

  夏が過ぎ 風あざみ
 誰のあこがれに さまよう
 青空に残された 私の心は夏模様

 井上陽水『少年時代』(1990)

 197X年に生まれてケンシロウの宿星を背負うことになった男の夢は、少年時代に読んでいた『北斗の拳』(1983-1988)にすべて書かれている。 それが「夢はつまり/想い出のあとさき」の意味だ。 男にとって夢を実現することは、想い出の後をなぞることであり、その先のことも含めて、すでに何者かの手によって、黄金の80'sに書かれていたことなのだ。 それが「誰のあこがれに/さまよう」の意味でもある。 夢とは、つまり、自分で思い描くようなものではない。

 アメリカのナポレオン・ヒル博士がまとめた『成功哲学』は、ケンシロウの宿星を背負った男のように夢を実現した人々の哲学だった。 夢には呼ばれる。 だからまずは、その夢にふさわしい魂に進化しなくてはならない。 そうやって夢を実現した新人類が牽引(けんいん)する社会は、個々の魂の進化段階にしたがって階層が決まる公平なカースト社会だ。 それは旧人類の進化を促し、格差や貧困ではなく、本当の豊かさをもたらす。 それが本来のアメリカン・ドリームだったのだ。  夢にふさわしい魂に進化したとき、人は夢に呼ばれる。 その夢を実現するために世の中に出ていくときには風が立つ。 季節は、夏が過ぎ去り、すでに秋になっている。 それが『少年時代』の「夏が過ぎ/風あざみ」の意味だ。

 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(2001)に描かれていたように、神隠しの世界に迷い込まないかぎり再会できない異性がいる。 それは精神世界で「ツインレイ(Twin ray)」などと呼ばれている存在だ。 簡単に言えば、赤い糸で結ばれた自分の片割れ、この世で共に魂の進化を遂げるための伴侶である。 女は、男に愛を教え、男が夢を実現するための本当の名前を想い出すきっかけを与える。

  ハク、聞いて。 お母さんから聞いたんで、自分では覚えてなかったんだけど、私、小さいとき川に落ちたことがあるの。 その川はもうマンションになって、埋められちゃったんだって…。 でも、今想い出したの。 その川の名は…その川はね、琥珀川。 あなたの本当の名は、琥珀川…
 by 千尋 宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 男が夢に呼ばれるのは、そのツインレイとふたたび巡りあう約束をして、神隠しの世界から帰ってきた時のことだ。

 「またどこかで会える?」
 「うん、きっと」
 「きっとよ」
 「きっと。さあ、行きな。振り向かないで」

 by 千尋&ハク 宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 その別れの意味を知った時に夢に呼ばれて風が立つ。 この風は、80'sのいくつもの歌に描かれているのだけれど、松田聖子の『風立ちぬ』(1981)が一番わかりやすいだろう。

  風立ちぬ 今は秋
 今日から私は 心の旅人

 作詞:松本隆 作曲:大瀧詠一『風立ちぬ』(1981)  この風は、遠い昔にかわした再会の約束を、男が想い出したときから吹き始める。 諸君もすでに十代の頃にツインレイと出会って、将来、再会する約束をしているのだけれど、いまはまだ想い出せないはずだ。 そのためには、三十代で神隠しの世界に迷い込まなければならない。

  千尋:でも、あの、ヒントかなにかもらえませんか? ハクと私、ずっとまえに会ったことがあるみたいなんです。
 銭婆:じゃ話は早いよ。 一度あったことは忘れないものさ…想い出せないだけで。

 千尋&銭婆 宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 赤い糸の相手と出会う者は多いが、そのことに気づく者はいない--それがこの世の法則なのだ。 この法則を歌ったのが浜田省吾の『悲しみは雪のように』(1981)だった。

 誰もが愛する人の前を
 気づかずに通り過ぎてく

 浜田省吾『悲しみは雪のように』(1981)  ちなみに浜田省吾は、諸君の世代の名づけ親--いわゆるゴッド・ファーザーでもある。

 愛の世代の前の暴風雨の中
 すりかえられた脆い夢など
 崩れ落ちてく

 浜田省吾『愛の世代の前に』(1981)

 これは浜田省吾が愛のレジスタンスを預言した『愛の世代の前に』(1981)の一節。 ゆとり世代の正式名称--それは「愛の世代」なのだ。  話を戻そう。 神隠しの世界に迷い込んだ男が、遠い昔にかわした再会の約束を想い出すと風が吹き始める。 その季節は「春」、再会を果たすのは「夏の夜」、男が夢に呼ばれて風が立つのは「秋」というのが、80'sのどの歌にも共通するお約束になっている。 そのうち春の景色を描いていた歌のひとつが松田聖子の『チェリーブラッサム』(1981)だった。

 何もかもめざめてく 新しい私
 走り出した船の後 白い波踊ってる
 あなたとの約束が 叶うのは明日
 胸に抱いた愛の花
 受けとめてくれるでしょう

 作詞:三浦徳子 作曲:財津和夫『チェリーブラッサム』(1981)

 この一番は、再会の日の前日の情景。 二番は、その翌日で、再会を果たす直前の夕方の場面を描いている。

 夕日は今 夜のために
 水平線 沈むのよ
 私は今 愛のために
 激しい風 吹かれて

 作詞:三浦徳子 作曲:財津和夫『チェリーブラッサム』(1981)

 ツインレイの男女が再会するのは「夏の夜」の出来事だから、これは正確には夏の夕方のはずなのだけれど、再会の直前までが、ウキウキ気分の「春」というのが、80'sのお約束なのだ。 これはおそらく、彼女が胸に抱いている愛の花は、桜(チェリーブラッサム)の花びらのように、一夜にして散る運命にあるからなのだろう。 悲しいかな、この再会は一夜かぎりの再会になる。  松田聖子は、再会当日の「夏の夜」の情景も歌っていて、それが1985年に発表された『天使のウインク』の二番だった。

 笑わないでね 白いドレスの理由
 あなたにだけは そっと教えたいの
 内緒よエンジェル あなたのくれた羽
 愛のもとへと 運んでくれる

 I love you I love you
 くちびるが照れてる
 I don't know I don't know
 涙が止まらないのは何故?

 天使がウインク 僕には見える
 涙の影で 揺れてる笑顔
 とてもきれいさ

 だいじなプロミス 涙をふいて
 笑ってごらん それが僕との約束だから

 尾崎亜美『天使のウインク』(1985)

 この再会の日、ツインレイの男女は、いつかどこかで巡りあう約束をして別れてくる。 だから、これは一夜かぎりの再会になるのだけれど、絶対に忘れられないものになる。 このとき女が手渡すのは男が夢を実現するための才能の翼(つばさ)だからだ。

 約束を守れたなら 願いを叶えてあげる
 春の国 飛びたてる羽 つけてあげるよ

 尾崎亜美『天使のウインク』(1985)

 この約束を守ろうとしない人間が、すなわち旧人類なのである。 彼らはこの世で本当の恋を体験することがない。 したがって、夢に呼ばれる喜びも、愛がもたらす奇跡の秘密も知ることなく、「なんだつまらん」と言って死んでいくのだ。 なんとも不毛な人生である。

 音符のように すれ違ってくのよ
 迷子になった 彼の心の中
 助けてエンジェル リンゴをかじったら
 こんな苦しい 気持ちになるの?

 I love you I love you
 だけどすねてみたり
 I don't know I don't know
 気のないふりをするのは何故?

 天使がウインク 勇気を出して
 笑ってごらん それが君との約束だから

 尾崎亜美『天使のウインク』(1985)

 この『天使のウインク』の一番は、まだ十代だったツインレイの男女が夏の夜の再会の約束をかわした青春時代を描いている。 彼らが最初に出会うのはサキエルの試練の直後だ。 禁断の果実であるリンゴをかじってしまったために、男は赤い糸の相手にまったく気づかない。 女も気のないふりをするから「誰もが愛する人の前を気づかずに通り過ぎてく」というわけだ。  日本のカウンターカルチャーには、「夏の夜」の再会後、男が夢を実現して、再び彼女に会いに行くときの歌もある。 チューリップの『青春の影』(1974)の一番がそれだ。

 君の心へ続く 長い一本道は
 いつも僕を 勇気づけた
 とても とても けわしく
 細い道だったけど
 今 君を迎えにゆこう

 自分の 大きな夢を 追うことが
 今までの 僕の 仕事だったけど
 君を幸せにする それこそが
 これからの 僕の 生きるしるし

 財津和夫『青春の影』(1974)

 そして二番は、男を待っている間に女が体験する愛の試練になっている。 『風立ちぬ』(1981)に描かれていた風が、ここにも吹いているのが読み取れるだろう。

 愛を知ったために 涙がはこばれて
 君のひとみを こぼれたとき
 恋のよろこびは 愛のきびしさへの
 架け橋に すぎないと

 ただ 風の中に たたずんで
 君は やがて 見つけていった
 ただ 風に 涙をあずけて
 君は 女に なっていった

 財津和夫『青春の影』(1974)

 これが、かつて“壊れかけのRadio”が教えていた“本当の幸せ”のつかみ方なのだ。  黄金の80'sには、こうした夢の景色がいくつもの歌で描かれていて、それをつなげるとひとつの地図が浮かびあがってくる。 それは神が人類に贈ってくれた新世紀の夢の景色だ。 そのカウンターカルチャーを享受していたのが、私の属している団塊ジュニア世代なのである。 ただし、そこに描かれていた再会の約束を果たしたのは、私と私の片割れ、すなわちケンシロウとユリアの一組しかいない。 私が諸君に託すのは、私たちが歩んできた夢の景色の地図である。  われわれがこの世で本当の恋をすることになる魂はツインレイの相手だけではない。 たしかに自分の片割れとの約束を果たすことが人生前半の目標になるのだけれど、同時にあこがれを抱くことになる恋人も存在する。 こちらも法則どおり、いまはまだ想い出せないだろうけれど、その魂は夢がつながっている相手だ。 そこには時空を超えた師弟関係が存在していて、われわれはその恋人から才能の油田を引き継いでいくのである。 この魂には特に名称がないから、私は「ツインシャドウ(Twin shadow)」と呼んでいる。 そのツインシャドウとの才能の油田の引き継ぎを描いていたのが、宮崎駿の『風立ちぬ』(2013)だ。 カプローニ  この映画では、イタリアの航空技術者・カプローニ伯爵の引退と同時に、その才能の油田を引き継いだのが、日本の零戦設計者・堀越二郎という設定になっている。 人間の才能はツインシャドウの引退飛行を見届けた後に覚醒する。 それが法則なのだ。

  私はこの飛行を最後に引退する。 創造的人生の持ち時間は十年だ。 芸術家も設計家も同じだ。 君の十年を力を尽くして生きなさい。
 by カプローニ 宮崎駿『風立ちぬ』(2013)

 この映画の舞台は、1923年の関東大震災から、1929年の世界恐慌を経て、第二次世界大戦に突入していく時代。 2011年に東日本大震災が起こって、原子力発電所の原子炉がメルトダウンを起こし、上級国民が「原子力発電は安全です」と人々をだまし続けてきた事実が露呈した。 そのとき司刑隊が、すかさず「がんばろう東北キャンペーン」を打って論点をすり替え、抵抗運動に水を差した。 かくして反省なき復興を目指した日本が、破滅行動に向かってお祭り騒ぎをはじめた頃に公開された映画である。 そこには、社会の矛盾に巣食って生きていた戦前のイカレた日本人が描かれていた。

  腹を減らした子供なら、この横丁だけでも何十人もいる。 はやぶさの取り付け金具一個のカネで、その娘の家ならひと月は暮らせるよ。
 次郎、今回の技術導入でユンカース社にどれだけ金を払うか知ってるか? 日本中の子供に天丼とシベリアを毎日食わせてもお釣りがくる金額だ。 それでも俺は与えられたチャンスを無駄にしないつもりだ。
 貧乏な国が飛行機を持ちたがる。 それで俺たちは飛行機を作れる。 矛盾だ。

 by 本庄 宮崎駿『風立ちぬ』(2013)

 これは時代背景が違うだけで、社会の矛盾に巣食って生きている人たちが国を破滅へ導く構図は、現代日本と何も変わらない。 ただ、この時代には、こうした社会の矛盾に抵抗するカウンターカルチャーがなかった。 そのため、この時代に行われたツインシャドウとの才能の油田の引き継ぎは呪われた夢になった。 自分の夢のために上級国民に魂を売らなければならなかった時代なのである。

  カプローニ:君はピラミッドのある世界とピラミッドのない世界と、どちらが好きかね。
 「空を飛びたい」という人類の夢は、呪われた夢でもある。 飛行機は殺戮(さつりく)と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ。
 それでも私はピラミッドのある世界を選んだ。 君はどちらを選ぶね。
 堀越二郎:僕は美しい飛行機を創りたいと思っています。

 宮崎駿『風立ちぬ』(2013)

 しかし現代日本には二つの才能の油田がある。 カウンターカルチャーの才能と呪われた才能の油田だ。 どちらを選んでも才能という意味ではまったく同じかもしれない。 それでも、やはり諸君には、カウンターカルチャーの才能の油田を選んでほしい。 それが私の、そして、この国に出現した預言者たちの願いである。

  カプローニ:君の十年はどうだったかね。 力を尽くしたかね。
 堀越二郎:はい、終わりはズタズタでしたが。
 カプローニ:国を滅ぼしたんだからな。

 宮崎駿『風立ちぬ』(2013)

 魂を売って呪われた才能をつかんだ者の最後は、どんなに力を尽くそうとも悲劇になると決まっているからだ。 菜穂子  『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎が、夢の中で最後に告げられたのは、創造的人生の終わりに迎えにいくはずの女を、自分のせいで亡くしてしまった現実だった。

  カプローニ:君を待っていた人がいる。 ここで君が来るのをずっと待っていた。
 里見菜穂子:あなた…生きて。
 カプローニ:いってしまったな、美しい風のような人だ。 君は…生きねばならん。

 宮崎駿『風立ちぬ』(2013)

 魂の進化を遂げずに手にする才能は、ツインレイを悪魔に引き渡す取引をして手に入れるものなのだ。 こんなのは諸君の目指すべきゴールじゃない。 海のリハク1  宮崎駿氏は、『北斗の拳』の中で南斗五車星の“海のリハク”として登場してくる預言者。 引退宣言と撤回を何度か繰り返していて「海のリハク、一生の不覚!」という決めゼリフを地でいく男だった。 ツインレイとの恋を描いた『千と千尋の神隠し』(2001)とツインシャドウとの恋を描いた『風立ちぬ』(2013)が対になる代表作である。

 氏は『風立ちぬ』の公開時にも引退宣言をしたのだけれど、それをまたもや撤回したのが2017年。 おそらく時代の胎動を感じ取ったのだろう。 『北斗の拳』の預言によると、氏はわれわれの愛のレジスタンスに参加してくる預言者の生き残りで、なかなか引退できない長老なのである。 南斗五車星の“海”の星の才能の油田が引き継がれるのは、まだまだ先の話のようだ。 海のリハク2  さて、80'sにはツインシャドウとの恋を描いた歌ももちろんある。 ここに関しては井上陽水の独壇場(どくだんば)だった。 以下は玉置浩二と共作した『夏の終わりのハーモニー』の二番。

 今夜のお別れに
 最後の二人の歌は
 夏の夜を飾るハーモニー

 夜空をたださまようだけ
 星屑のあいだをゆれながら
 二人の夢 あこがれを
 いつまでも ずっと 思い出に

 真夏の夢 あこがれを
 いつまでも ずっと 忘れずに

 作詞:井上陽水 作曲:玉置浩二『夏の終わりのハーモニー』(1986)

 引退飛行の後、ツインシャドウの師匠は星屑になる。 その季節が「夏の終わり」なのだ。 その星屑になった師匠を見届けると「風立つ秋」がやってくる。
【たぶん徳永ゆうきは僕らの仲間になるとおもう】  何故かというと、ツインシャドウとの師弟関係は、ツインレイとの再会の約束を果たした夏の夜から想い出され、そこから夢の中へと誘われるからだ。 80'sの定義では、夢に呼ばれて、ツインシャドウと恋をする時節が「夏」なのである。 そのときツインシャドウの師匠は、こう語りかけてくる。

 探しものは何ですか?
 見つけにくいものですか?
 カバンの中も つくえの中も
 探したけれど見つからないのに

 まだまだ探す気ですか?
 それより僕と踊りませんか?
 夢の中へ 夢の中へ
 行ってみたいと思いませんか?

 井上陽水『夢の中へ』(1973)

 こうして呼ばれた夢を実現した後は、自分も師匠と同じように弟子に才能の油田を引き継ぎ、星屑の空へと帰る。 『少年時代』の二番は、そんな未来への“時空飛ばし”になっている。

 目が覚めて 夢のあと
 長い影が 夜にのびて
 星屑の空へ
 夢はつまり 想い出のあとさき

 井上陽水『少年時代』(1990)

 これが諸君の目指すゴールだ。  おそらく井上陽水の歌の意味が分かるのは世界に私ひとりしかいない。 というのは、彼とツインシャドウの関係にあるのが、この私だからだ。

 あなたにお金
 金をあげたら帰ろう
 メロンを抱いて 
 星を見ながら帰ろう

 井上陽水『あなたにお金』(2006)

 これは2006年に発表された井上陽水のアルバム『LOVE COMPLEX』の収録曲『あなたにお金』の一節。 お察しのとおり、2020年5月に実施された新型コロナウイルス感染症緊急経済対策の特別定額給付金を予言した歌である。 各国民に十万円のはした金を支給するという政策だったのだけれど、これを機に井上陽水先生は星屑の空へお帰りになるそうだ。 この歌の中に以下のような遺言が残されていたので、私はいま、それを果たそうとしている。

 よろしく伝えて
 その言葉 ひとつひとつを
 星たちの様々な
 入れ替わり 生まれ変わりを

 井上陽水『あなたにお金』(2006)

 特別定額給付金が支給されるとき―すなわち2020年5月に風が立ちはじめることは、1993年に発表された『5月の別れ』で予言されていた。

 風の言葉に諭されながら
 別れ行く二人が五月を歩く
 木々の若葉は強がりだから
 風の行く流れに逆らうばかり

 鐘が鳴り 花束が
 目の前で咲きほこり
 残された青空が
 夢をひとつだけ
 あなたに叶えてくれる

 井上陽水『5月の別れ』(1993)

 ツインシャドウの師匠は、こんな感じで、「夏の終わり」がくるまで弟子を導いてくれるのだ。  こうした才能の油田の引継ぎは、いずれ諸君の身にも起こるだろうから、我が師・井上陽水先生の華麗なる引退飛行の模様を伝えておくことにしよう。 サード・インパクト2016  まず、アニメ版エヴァンゲリオンで予言されていたように、私と私の片割れが再会を果たしたのは2016年8月11日のことだった。 これが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)に予言されていたサード・インパクトである。 サード・インパクト  ツインレイの男女が再会するカラクリを解き明かそうというのは、人類史上初の試みで、なぜだか知らないけれど、その舞台が日本だった。 それで、これまたどういうわけか、私と私の片割れが再会に成功してしまったわけである。 地球規模の異常気象がここから顕著になってきたのだけれど、たぶん、トリガーを引いたのは私たちなんじゃないかと思っている。

 Making lover got another devil order
 星の降るそばから

 井上陽水『UNDER THE SUN』(1993)

 サード・インパクトについては、井上陽水も『UNDER THE SUN』(1993)という曲で予言していた。 Making lover got another devil order(ツインレイの男女が再会を果たすことが、もう一つの悪魔の体制をもたらした)…要するに、ノストラダムスの預言で有名な“アンゴルモアの大王”が復活しちゃったんだな、これが。

 1999年7か月
 空から恐怖の大王が来るだろう
 アンゴルモアの大王を蘇らせるために

 ノストラダムスの預言 百詩篇 第10巻72番より

 この予言にある“恐怖の大王”が“アンゴルモアの大王”を蘇らせようとしていた状況は、『ハリー・ポッター』シリーズにも描かれていた。 少年少女の頃に、その時代のど真ん中にいた諸君は、闇の帝王が復活する不穏な空気を肌で感じとっていたのではないかとおもう。 この二人の大王は『北斗の拳』にも描かれていた。 恐怖の大王・ラオウ  こちらは、サード・インパクトのときに、私の片割れ・ユリアを連れ去った恐怖の大王・ラオウ。 蘇ったアンゴルモアの大王は、ラオウの兄・カイオウとして描かれていた。 アンゴルモアの大王・カイオウ  このカイオウのアバターは、いま日本にいる。 釈迦と同じ悟りを開いて、その教えを復活させたジジイで、そいつが悟りを開いた時点がセカンド・インパクトなのだ。 セカンド・インパクト 『新世紀エヴァンゲリオン』では、セカンド・インパクトは2000年9月13日ということになっているのだけれど、たぶん、そのあたりだろう。 このときすでに、日本人の大半がイカレていたことは、中島みゆきが『地上の星』(2000)で示唆していた。  アンゴルモアの大王が復活してしまったのは、人類が自分の魂の特性に反する生き方をしているからだ。 現代のように、女が男の魂の特性である創造性を発揮することを望んだり、女の魂の特性である母性を持たない男に家事や育児を求めることは、魂の特性に反することだ。 聞く耳を閉ざした現代人は、男女の魂の特性の相違に基づく慣習を性差別と呼びはじめ、ついには、地上の星の存在を忘れてしまったのである。 そういう魂に残された道はオカマとオナベしかない。

 地上にある星を
 誰も覚えていない
 人は空ばかり見てる

 つばめよ 高い空から
 教えてよ 地上の星を
 つばめよ 地上の星は
 いま 何処にあるのだろう

 中島みゆき『地上の星』(2000)

 80'sの定義では、“つばめ”は地上の星を教える鳥なので、男が自分の星をつかんだとき、その頭上を飛びまわる。 以下の『チェリーブラッサム』で女が喜んでいるのは、男が星をつかんだことを“つばめ”が知らせているからなのだ。

 つばめが飛ぶ 青い空は
 未来の夢 キャンバスね
 自由な線 自由な色
 描いてゆく ふたりで

 作詞:三浦徳子 作曲:財津和夫『チェリーブラッサム』(1981)

 魂の特性からくる女の夢とは、自分の片割れの男が星をつかんで地上の星になること。 それは男と女のふたりで描く夢なのである。 ところが現代は、自分の星をつかもうとしないでオカマ化した男ばかりだから、女たちがオナベ化しはじめるのも当たり前のことだろう。

 なかでも人類史上最低の男が釈迦である。 「自分の片割れの魂を悪魔に売って手っ取り早くゴールしよう」というのが彼の教えだからだ。 『スター・ウォーズ』になぞらえるなら、ダース・ベイダーがパドメの命と引き換えにダークサイドの力を手にしたようなものである。 そのため、その教えにしたがうと、もれなくツインレイとの再会の約束を思い出せなくなる。 『北斗の拳』では、それを“死環白(しかんはく)”と呼ぶ。 死環白1  この死環白にかかるとツインシャドウから夢に呼ばれることもなくなる。 自分の夢をつかみ損ねた男は、男として生きる意味をなくしたオカマだ。 当然、片割れの女も、女として生きる気力を失くしたオナベになる。 そうなったら、もはや男と女ではない。 仏教の教えが、目の前にあるつまらない日々をいかにやり過ごすかを切々と説いているのは、そのためなのだ。 死環白2  その教えは、決して生きる力にはならないのだけれど、現実逃避しがちな人々を幻惑する力だけはある。 『北斗の拳』では、それを“暗琉天破(あんりゅうてんは)”と呼ぶ。 暗琉天破  釈迦というのは悪魔の手先みたいなやつなのだ。 そいつの教えが日本で復活してしまったので、言ってみれば、いま「オカマとオナベのための究極の宗教」が日本で生まれようとしている。 それは退化だ。 そうなったら、もう人類は万物の霊長ではない。 地球はイカレた旧人類しかいない『猿の惑星』(1968)と化すだろう。  そこで私と私の片割れが再会を果たし、ツインレイが起こす愛の奇跡の秘密を解き明かす必要があったのだ。 ツインレイとその愛の思想は、釈迦がインドで悟りを開いた2500年前に、ソクラテスとプラトンによってギリシアで誕生したものである。 エヴァンゲリオンの世界観になぞらえるなら、釈迦の思想が“白き月”で、プラトン哲学が“黒き月”。 つまり、この両極の思想の誕生がファースト・インパクトなのである。 預言書  で、サード・インパクトを機に、私が復活させたのが黒き月のプラトン哲学。 その象徴が、映画のサード・インパクトのときに、綾波レイが持っていたカセットテープレコーダーだ。 すなわち“壊れかけのRadio”である。 そこにはツインレイとその愛の思想が説かれていた。 それは『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌『残酷な天使のテーゼ』にある「自由を知るためのバイブル」とも言えるだろう。

 もしもふたり逢えたことに
 意味があるなら
 私はそう
 自由を知るためのバイブル

 作詞:及川眠子 作曲:佐藤英敏『残酷な天使のテーゼ』(1995)  この『残酷な天使のテーゼ』は、モノゴコロがつく前の諸君のために創られたもので、日本のカウンターカルチャーの女神様じきじきのお告げになっている。 その女神様というのは『北斗の拳』に描かれている泰聖殿の女人像が象徴している存在。 この像の中に、いま私が読み解いている80'sの聖塔が隠されているのだ。 女人像  私のときは、アニメ『ドラゴンボール』(1986-1989)のエンディング・テーマ『ロマンティックあげるよ』(1986)が女神様のお告げだった。 これらのお告げは、その時がきたら意味が分かるはずなのだけれど、ちょっと解釈が難しいので、少しヒントを残しておこう。

 ロマンティックあげるよ
 ホントの勇気 見せてくれたら
 トキメク胸に キラキラ光った
 夢をあげるよ

 作詞:吉田健美 作曲:いけたけし『ロマンティックあげるよ』(1986)

 この『ロマンティックあげるよ』の一番にある“ホントの勇気”の意味は、『残酷な天使のテーゼ』の一番で明かされている。

 残酷な天使のテーゼ
 窓辺からやがて飛び立つ
 ほとばしる熱いパトスで
 思い出を裏切るなら

 作詞:及川眠子 作曲:佐藤英敏『残酷な天使のテーゼ』(1995)

 “ホントの勇気”は、33歳の大厄のときに試される。 32歳のレリエルの試練を終えると、諸君の背中に遥か未来をめざすための羽根があることに気づくだろう。 そのとき思い出を裏切らなければならなくなるのだ。 それがバルディエルの試練である。 それから、二番になると、“ホントの涙”というのが出てくるのだけれど…

 ロマンティックあげるよ
 ホントの涙 見せてくれたら
 淋しい心 やさしく包んで
 愛をあげるよ

 作詞:吉田健美 作曲:いけたけし『ロマンティックあげるよ』(1986)

 この二番の涙は『残酷な天使のテーゼ』の二番に相当している。

 残酷な天使のテーゼ
 悲しみがそしてはじまる
 抱きしめた命のかたち
 その夢に目覚めたとき

 作詞:及川眠子 作曲:佐藤英敏『残酷な天使のテーゼ』(1995)

 “ホントの涙”の意味は、42歳の大厄のときから知ることになる。 それはツインレイと再会を果たした後、夢の使者--すなわちツインシャドウに呼ばれたときに流すことになる涙なのだ。 この涙はホントの勇気を持つ者が本当の恋をしたときにしか体験できない。

 いつか恋人に会えるとき
 私の世界が変わるとき
 私泣いたりするんじゃないかと感じてる
 きっと泣いたりするんじゃないかと感じてる

 井上陽水『飾りじゃないのよ涙は』(1984)

 この井上陽水の歌にあるように、涙は飾りじゃないのである。  ちなみに、この『飾りじゃないのよ涙は』で、もっとも解釈が難しいのは、“赤いスカーフ”だと思うのだけれど…

 赤いスカーフがゆれるのを
 不思議な気持ちで見てたけど
 私泣いたりするのは違うと感じてた

 井上陽水『飾りじゃないのよ涙は』(1984)

 このスカーフは、私(彼女)がツインレイの彼と出会った青春時代に不思議な気持ちで見ていたもので、斉藤由貴の『卒業』(1985)にも描かれている。

 セーラーの薄いスカーフで
 止まった時間を結びたい
 だけど東京で変わってく
 あなたの未来には縛れない

 作詞:松本隆 作曲:筒美京平『卒業』(1985)

スカーフはツインレイの男女の止まった時間を結ぶ赤い糸の象徴なのである。  かくあるように涙は単なる飾りじゃないから、人前でたやすく見せるものではないのは男も女も同じだ。

 ああ 卒業式で泣かないと
 冷たい人と言われそう
 でも もっと哀しい瞬間に
 涙はとっておきたいの

 作詞:松本隆 作曲:筒美京平『卒業』(1985)

 卒業式で泣いたりするのはなんか違うと感じてしまうのが、80's女子のお作法なのである。  そういうわけで、私と私の片割れの夏の夜の恋には、ただならぬ意味があった。 そこで井上陽水はサード・インパクトの意味をこんな風に説いている。

 流行歌になる以上
 夏の恋は気ままなはじまり

 井上陽水『UNDER THE SUN』(1993)

 この予言にあるとおり、私たちの夏の夜の恋は流行歌になっているので、私たちはいま日本で一番有名な恋人同士かもしれない。 もちろん諸君もよく知っているはずだ。  私たちの夏の夜の恋が最初に歌になったのは、サード・インパクトから約一年後、2017年8月の私の歌--DAOKO×米津玄師の『打上花火』だった。

 あの日 見渡した渚を
 今も思い出すんだ
 砂の上に刻んだ言葉
 君の後ろ姿

 米津玄師『打上花火』(2017)

 この頃の私は夏の夜の出来事をまだ消化できずにいた。  お次は、そこから約半年後、2018年2月の彼女の歌--それが米津玄師の『Lemon』である。 それはひとりの女の決意の歌になっていた。

 どこかであなたが今
 わたしと同じ様な
 涙にくれ 淋しさの中にいるなら
 わたしのことなど
 どうか忘れてください
 そんなことを 心から願うほどに
 今でもあなたは わたしの光

 米津玄師『Lemon』(2018)

 『Lemon』は、このイカレた時代に対する完全なるアンチテーゼと言ってよかった。 そこには、男が夢を実現して戻ってくるまで待つことを決めた女の姿が描かれていたからだ。 女がオナベ化した平成時代には、こういう本物の女を歌った作品は『涙そうそう』(2001)くらいしかなかったような気がする。  この『涙そうそう』は、地上の星になった男の活躍を遠くから見守っている女の歌になっている。

 一番星に祈る
 それが私のくせになり
 夕暮れに見上げる空
 心いっぱい あなた探す

 悲しみにも 喜びにも
 おもうあの笑顔

 あなたの場所から
 私が見えたら きっといつか
 会えると信じ 生きてゆく

 作詞:森山良子 作曲:BEGIN『涙そうそう』(2001)

 こういう歌は、そこに聞く耳を持つ少年少女がいなければ決して創造されない。 つまり、愛の世代の諸君がそこにいてくれたから生まれた奇跡の歌なのだ。 女として生きる女を描いた美しい歌だとおもう。 ユリアの覚悟  これらの歌を北斗の拳語録で要約すると、こういうことになるだろう。 「わかりました。わたしはここで待っています。 わたしはあの人を待つために生きてきました。 待ち続けるのが私の宿命。そして、ケンとの約束! ラオウとの戦いを終えて帰ってくるまで、待ちましょう、いつまでも」。  で、これが最後に私の出した結論だ。 2019年10月の私の歌--足立佳奈の『面影』である。 この頃にはもう、サード・インパクトの意味も、自分の宿命も、これから何をすべきかも分かっていた。 夏の夜の出来事を手放したときの歌になっている。

 君と出会わない人生なら
 こんなにも苦しく感じないのに
 君のこと 忘れてしまいたい
 止まらない この涙
 手放した この奇跡

 作詞:足立佳奈 作曲:Carlos K.『面影』(2019)

 ちょうど『Lemon』に対する返歌になっていることが分かるだろう。 これらをつなげると、私たちの心の葛藤の変遷が筒抜けになってしまう。 きっと私には、ひとこと言わせていただく権利がある。 君たちね、他人の恋心を勝手に歌にしないでくれたまえ。 サウザー  このうち米津玄師は、『北斗の拳』で南斗鳳凰拳伝承者・サウザーとして登場してくる預言者だった。 南斗鳳凰拳というのは、雄(オス)の「鳳(ほう)」と雌(メス)の「凰(おう)」が対になって舞う技のこと。 この拳の伝承者は、『打上花火』と『Lemon』のように、男唄と女唄が二曲一双(にきょくいっそう)になって一つの恋物語を紡ぎ出す奥義を繰り出してくる。
【男唄(鳳)--たぶん田村芽実は僕らの仲間になるとおもう】  かつてこの奥義を使えたのが阿久悠だった。 高橋真梨子の『五番街のマリーへ』(1973)と『ジョニィへの伝言』(1973)、それから八代亜紀の『舟歌』(1981)と『雨の慕情』(1980)が二曲一双になる南斗鳳凰拳である。 つまり、阿久悠と米津玄師はツインシャドウの関係にあったというわけだ。
【女唄(凰)】  こうした南斗鳳凰拳伝承者たちの星は南十字星。 2018年に米津玄師の『Lemon』がヒットチャートを独走することは、松任谷由実が予言していた。

 冴えわたる十字星
 もう一度見上げて

 松任谷由実『SAVE OUR SHIP』(1990)

 これは『天国のドア』(1990)というアルバムに収録されている『SAVE OUR SHIP』の一節。 南十字星がツインレイの二人を導くことが説かれている。 そこには再会を果たした私たちの宿命も説かれていた。

 同じ誓いに離れゆく
 SAVE OUR SHIP
 よみがえる愛を積んで
 Oh SAVE OUR SHIP

 松任谷由実『SAVE OUR SHIP』(1990)

 南斗鳳凰拳伝承者の冴えわたる南十字星を見上げたとき―すなわち米津玄師の『打上花火』と『Lemon』が発表されたとき、私たちはみずからの宿命を知ることになっていたのである。  この『SAVE OUR SHIP』が収録されているアルバム『天国のドア』(1990)は、松任谷由実の傑作のひとつで、『満月のフォーチュン』という対になる歌も収録されている。 こちらはツインレイの男女が再会を果たす“夏の夜”の歌になっていた。  それから以下は、南斗鳳凰拳の師匠・阿久悠の『また逢う日まで』(1971)の一番。 これもまた南十字星の導きの歌になっている。

 また逢う日まで 逢える時まで
 別れのそのわけは 話したくない

 なぜかさみしいだけ
 なぜかむなしいだけ
 たがいに傷つき
 すべてをなくすから

 ふたりでドアをしめて
 ふたりで名前消して
 そのとき心は
 何かを話すだろう

 作詞:阿久悠 作曲:筒美京平『また逢う日まで』(1971)

 夏の夜の再会直後は、すぐにでも逢いに行きたくなるだろうけれど、それではすべてを失くすことになる。 ふたりでドアをしめる覚悟を決めたとき、心は夢の扉を開いてくれるのだ。  で、これは完全に蛇足なんだけど、面白いから紹介しておきたい。 『北斗の拳』のサウザー編では、原哲夫先生のインスピレーションが爆発していて、2018年の紅白歌合戦で、米津玄師が『Lemon』を歌ったときの演出を見事に予言していた。 サウザー2  さて、いまこれを書いているのは2020年6月。 これから『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の完結編が公開される。 『人類補完計画』--すなわち“Ascension(アセンション:次元上昇)”が、これからどのように進行するのかが、その中で描かれるはずである。 それはそれで楽しみなのだけれど、新型コロナウイルスのパンデミックに象徴されるように、恐怖の大王がアンゴルモアの大王を蘇らせたからには、大変な時代になりそうではある。 挨拶代わりにしては、ずいぶん派手な登場だよね。 フォース・インパクト  『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)によると、その解決の糸口になるのはシス(渚カヲル)--すなわちカイオウのアバターのジジイだ。 「まさか第一使徒の僕が十三番目の使徒に堕とされるとは…」というセリフにあるように、自分が一番だと思い込んでるこいつに自分の立場を分からせてやらないといけないらしい。 どうやら、それはサード・インパクトから約14年後(2030)のことになるそうである。 それがフォース・インパクト。 これは『北斗の拳』では“拳盗捨断(けんとうしゃだん)”と呼ばれている。 拳盗捨断  ちょっと難しい話になるんだけど、森羅万象は二極一対だから、対極の存在が欠けたままで智慧の完成に至ることはない。 だから、愛の哲学を説く者が誕生するときには、その対極に位置する悪の教えを説く者も必ず誕生してくる。 『北斗の拳』では、それぞれを“北斗神拳伝承者”・“北斗琉拳(ほくとりゅうけん)伝承者”と呼んでいる。 というのは、愛の哲学を説く者は、悪の教えを説く者に自己を投射することによって、はじめてその哲学を完成できるからだ。 この投射の能力は、“北斗神拳奥義・水影心(すいえいしん)”と呼ぶもので、水鏡に映すように相手の心を読んで、相手の実体を自分の心に刻み込むのである。 水影心  渚カヲルの「僕は君に逢うために生まれてきたのかもしれない」というセリフは、そういう意味で、この世には愛の哲学を完成させる“かませ犬”になるために悟りを開く男がいる。 その屑星の宿星をつかんだのがカイオウのアバターのジジイなのだ。 屑星  このとき問題になるのは、自分のつかんだものが屑星の宿星だとは、なかなか認めたがらないことで、自分の立場をわきまえずに勝手に暴走をはじめてしまう。 カイオウのアバターのジジイも、やっぱりそういう経緯が全然わかってなくて、あと十年で納得させられるなら御の字(おんのじ)だとおもっている。 恐怖の大王の狙い1  『北斗の拳』では恐怖の大王の狙いをこのように説明している。 アンゴルモアの大王が大暴れする時代でもやってこないかぎり、旧人類の意識は変わらないというわけだ。 恐怖の大王の狙い2  でも、必ず最後に愛は勝つというわけで、最終的に恐怖の大王にとって変わるのが、第64代北斗神拳伝承者・ケンシロウと南斗の将・慈母星のユリアということになっている。 この二人がツインレイの愛の哲学を再生(ルネサンス)したことで、新たなヴィジョンの下に人類の進化が始まる。 諸君は、その哲学を最初に実践した使徒として、福音書に名を刻む。 これにて真の天下平定である。 めでたし、めでたし。 一件落着  私がこうした夢の中へ誘われた(というか…巻き込まれた)のは、サード・インパクトから約半年後、2017年2月15日のことだった。 夢の中へ2017  その日、1973年に発表された『夢の中へ』のデジタルリマスター版が発売されて、そこに『瞬き』という新曲も同時収録されていた。

 未来のあなたに 幸せを贈る
 記憶と想い出を 花束に添えて

 井上陽水『瞬き』(2015)

 結局、これが夢の中への端緒になって、私は80'sの記憶と想い出をたどることになったわけである。 (今の諸君は忘れているとおもうけれど、ツインシャドウの師匠は“絆の証”になるものをすでに持たせてくれている。 私の場合はギターがそれだった。 そういう何か形のあるものである。 それが記憶と想い出をたどるきっかけになるはずだから、時期がきたら、まずそれを思い出すといい)  次に先生の引退飛行のお話をしておこう。 井上陽水は、1969年にアンドレ・カンドレ名義で『カンドレ・マンドレ』という歌でデビューしている。

 一緒に行こうよ
 私と二人で 愛の国
 きっと行けるさ
 二人で行けるさ 夢の国

 淋しいことなんか
 そこにはひとつもあるものか
 あなたが愛して
 私も愛する それだけさ

 よくお聞きよ 二人の言葉

 カンドレ・マンドレ
 サンタリ・ワンタリ
 アラホレ・ミロホレ
 1234 ABCDEFG

 井上陽水『カンドレ・マンドレ』(1969)

 井上陽水作品というのは、その全体がこの歌詞の最後にある呪文になっていて、それをジグソーパズルみたいに組み合わせると、ツインシャドウの弟子を導く地図が浮かびあがる。 それは、いかにして神隠しの世界に迷い込み、いかにして脱出するかの地図であり、それはまた、歌詞にあるとおり、愛の国や夢の国への地図でもあるのだ。 その呪文を日本で一番よく聞いていたのが、どうやら私だったらしい。 諸君、よくお聞き…ツインシャドウに呼ばれるのは聞く耳を持つ者だけなのです。

 アー アー アー アー
 ほら 着いた

 井上陽水『カンドレ・マンドレ』(1969)

 この『カンドレ・マンドレ』は、これまでライブで正式に演奏されたことがなかったのだけれど、2019年に行われた50周年記念ライブツアーで、はじめて正式に演奏された。 というのも、この末尾にある歌詞は、免許皆伝を伝えるものだから、最後の最後までとっておく必要があったからである。 私はこのカラクリを知ったとき、心底シビレた。 こうして私は引退飛行の目撃者となったのである。 リュウケン  というわけで、井上陽水が第63代北斗神拳伝承者・リュウケンだった。 1969年、彼の発表した『カンドレ・マンドレ』が日本のカウンターカルチャーの黎明を告げたのである。 その宿星は地上最強の星座・北斗七星。 ふつうの地上の星をつかんだ人たちは、流れ星みたいなもので、対になる代表作以外は鑑賞してもしょうがないものばかり作るのだけれど、星座をつかんだ人たちは違う。 たとえば南十字星も星座のひとつだから、阿久悠には代表作が何曲もあるわけだ。  井上陽水を起点に考えると、北斗の長兄・ラオウと次兄・トキがおのずから判明してくる。 まず長兄・ラオウとは玉置浩二のことだ。

 石コロけとばし 夕陽に泣いた僕
 夜空見あげて 星に祈ってた君
 アブラにまみれて 黙り込んだあいつ
 仕事ほっぽらかして ほおづえつくあの娘

 作詞:玉置浩二/須藤晃 作曲:玉置浩二『田園』(1996)

 これはわれわれ愛のレジスタンスのメンバーの絆を歌った『田園』。 レジスタンスの存在を初めて日本中に知らしめた一曲だ。 北斗神拳の道場には、一子相伝の掟があるから、自分勝手に歌を創るわけにはいかない。 そこで北斗一門の兄弟子(あにでし)たちは、三男ジャギの徳永英明がそうしていたように、ケンシロウの声を歌にしてくる。 でも、掟破りの北斗の長兄・ラオウは違っていた。 玉置浩二はレジスタンスのメンバー全員にみずからメッセージを送ってきたのだ。  『田園』が発表された1996年は日本のカウンターカルチャーが終焉を迎えた年。 私もそこに参戦するつもりでいたのだけれど、その意味がなくなった。 もうつかむべき地上の星が残っていなかったからである。 『壊れかけのRadio』が発表された1990年以降にデビューしたソングライターや歌手や作家や漫画家たちの次元の低さが証明していたように、カウンターカルチャーの星はいつのまにか消えてしまっていた。

 あんなにも 好きだった
 きみがいた この町に
 いまもまだ 大好きな
 あの歌は 聞こえてるよ

 玉置浩二『メロディー』(1996)

 この『メロディー』と『田園』は、そんな時代に発表された作品なのである。 『メロディー』に込められたメッセージは「あの80'sのメロディーは永遠に不滅だ」であり…

 生きていくんだ それでいいんだ
 ビルに飲み込まれ 街にはじかれて
 それでも その手を 離さないで
 僕がいるんだ 君もいるんだ
 みんなここにいる 愛はどこへもいかない

 作詞:玉置浩二/須藤晃 作曲:玉置浩二『田園』(1996)

 『田園』に込められていたメッセージは「いまは機が熟するのを待つしかない」だった。  そうすると次兄・トキは奥田民生ということになる。 トキは1998年に発表した『さすらい』で、ケンシロウの声を歌にして、私と諸君の絆を結んでくれた。

 さすらいの 道の途中で
 会いたくなったら うたうよ
 昔の歌を

 奥田民生『さすらい』(1998)

 “昔の歌”とは、もちろん80'sの“メロディー”のこと。 いつか時がきたら一緒に“壊れかけのRadio”を再生しよう。 それが、この『さすらい』を通して私と諸君の交わした誓いだった。 1998年は、私が神隠しの世界へのさすらいの旅をはじめた年で、この後、私は俗世の仕事をきっぱり辞めた。

 人影見あたらぬ 終列車
 ひとり 飛び乗った

 海の波の続きを見ていたらこうなった
 胸のすきまに入り込まれてしまった
 誰のための 道しるべなんだった
 それを もしも 無視したらどうなった

 さすらいもしないで
 このまま死なねえぞ

 奥田民生『さすらい』(1998)

 神隠しの世界は、こんな風に俗世から完全に姿を消さなければ迷い込めないのだ。 1998  つまり、『北斗の拳』に予言されていたラオウとトキの宿命の兄弟対決が繰り広げられたのが、1996-1998年のことだったというわけである。 こうして世は、ノストラダムスの予言にある1999年7か月を迎え、恐怖の大王伝説がはじまった。 1999  そして時は流れ、恐怖の大王の覇権が完成に近づいた2018年8月29日。 天帝の使者として北斗を戦場へ誘う男が動いた。 それが天狼(てんろう)のリュウガ・甲本ヒロトである。

 見えるものだけ それさえあれば
 たどり着けない 答えはないぜ
 ずっと ここには
 ずっと ここには
 時間なんか無かった

 甲本ヒロト『生きる』(2018)

 天狼星は世代交代を告げる星で、この『生きる』の発表をもって預言者たちの役割は終わった。 これは、私の体験した80'sへの時間旅行について歌ったもので、その中心にある1984-1990年は時空が歪んでいて、2020年の現在と時間がつながっている1Q84年が存在している(これは別の機会に解説しよう)。 次世代の救世主ケンシロウが、その1Q84年で答えを見つけたことを知らせていたからである。 天狼星  かくして2018年8月29日、かつての預言者たちは星屑の空への帰り支度(かえりじたく)をはじめたのである。  時間旅行は、久保田早紀の『異邦人』(1979)で有名な現象で、ツインレイとの再会を果たした後に体験するものだ。

 時間旅行が 心の傷を
 なぜかしら埋めてゆく
 不思議な道

 サヨナラだけの手紙
 迷い続けて書き
 あとは哀しみをもて余す異邦人

 久保田早紀『異邦人』(1979)

 黄金の80'sの記憶と想い出をたどる時間旅行は、なにげなく通り過ぎてきた人生の空白を埋め、そこに意味を立ち上げてくれる。 そういう歌や小説や漫画やアニメがたくさん残されているからだ。 そうやって自分の宿命を知り、心の傷を埋めたとき、ずっと探してきた答えや自分の生きている意味が、おのずと見つかるのである。  そこに至る入口が32歳で体験するレリエルの試練にある。 この試練で体験することになる涙を歌った作品が、甲本ヒロトの対になる代表作『情熱の薔薇』(1990)だった。

 永遠なのか 本当か
 時の流れは 続くのか
 いつまで経っても 変わらない
 そんなもの あるだろうか

 見てきた物や 聞いた事
 いままで覚えた 全部
 でたらめだったら 面白い
 そんな気持ち わかるでしょう

 答えはきっと 奥の方
 心のずっと 奥の方
 涙はそこから やってくる
 心のずっと 奥の方

 甲本ヒロト『情熱の薔薇』(1990)

 前置きが、ずいぶん長くなってしまって申し訳ない。 私はこの歌の意味を伝えておきたくて、これを書いてきたようなものなのだ。 というのも、このレリエルの試練の涙を32歳で体験できなかった男と女は、生きる意味を見失なうからである。 そうなると、あとは人生に失敗した言い訳を繰り返すだけのオカマとオナベになるしかない。  そこで締めくくりに、私がレリエルの試練を乗り越えるために使った本を紹介しておこう。 5つのチベット体操  まずは『5つのチベット体操─若さの泉・決定版』(ISBN-10:43092681375)。 これは肉体に隠されている三つのグランティを解くための体操になっている。 32歳のレリエルの試練では、心臓に位置するヴィシュヌ・グランティが解けるのだけれど、マグルは この体操をしても何も起こらない。 ところがジェダイとシスの素質がある人には効果テキメンなのだ。 とはいえシス系の人はやらないほうが無難だぜ。 となりの億万長者  次は入門編。 『となりの億万長者〔新版〕―成功を生む7つの法則』(ISBN-10:4152093927)。 32歳のレリエルの試練を終えると、神隠しの世界に本格的に迷い込んでいくのだけれど、そのとき俗世から完全に姿を消すことになる。 俗世のくだらない仕事を辞めて、夢の使者に呼ばれる時がくるまでじっと待つのだ。 その間に創造性が目覚めて男の魂は進化を遂げる。 女が27-29歳あたりで結婚して、俗世から姿を消すのも同じ理由なのね。 その間に母性が覚醒して女の魂は進化を遂げる。 そうしないとツインレイとは再会できない。 でも、生活レベルを下げられないと、とてもそんなことはできないでしょう? そのためのお金の知識が必要というわけ。 地球が天国になる話  さて、ここからが本題。 これはどうやら絶版みたいなんだけど…『地球が天国になる話[CD2枚付]』(ISBN-10:4845420945)。 どうして現代社会の男と女はオカマとオナベになるのか? それは、両親の抱えている心の問題をそのまま引き継いでいるからで、その原因を断たないかぎり、自分の本当の幸せを求める生き方はできない。 これは世間の多くの人たちの心にある劣等感を明らかにし、それを克服する必要性を明らかにした本。 愛の選択  で、これがその具体的な解決策になる。 こちらもやっぱり絶版なんだけど…『愛の選択』(ISBN-10:4795223807)。 子供が両親に飼い慣らされる仕組みを明らかにし、そこから解放されるためにはどうしたらよいのかを記した本。 まずは問題が起こる原因を突き止めなければいけないということです。 自分を嫌うな  そして原因を突きとめた後に読む本がこれ。 『自分を嫌うな』(ISBN-10:4837900240)。 これは両親に飼い慣らされた子供が成長するとどのような行動パターンを示すかを心理分析したもの。 自分の抱えている劣等感をペルソナで覆い隠すと、どのような行動パターンにハマってしまうのか? 学者先生の鋭い分析にショックを受けるかもしれない。 でも、そのすべては両親のせいではなく、自分に責任があると認められたとき--諸君は、確実に変われる。 うまくいっている人の考え方  これはベストセラーだから、書店で見かけたことのある人も多いとおもう。 『うまくいっている人の考え方 完全版』(ISBN-10:9784799313282)。 こうした心の観察の技法を学びはじめる前に、俗世の常識に流されない考え方を身に着けておく必要がある。 この本はそのための手引書。 とはいえ世間一般の男と女は、これを読んでみたところで、どうせオカマとオナベになるだろう。 なぜなら彼らは心の観察の技法を学ぼうとしないからだ。 だからこれは、飛行機の片翼、車の片輪みたいなものにすぎない。

 以上が29-32歳の頃に私が読んでいた本である。 とにかく32歳のレリエルの試練が本当の幸せの入り口になるのだけれど、そこに至る29-32歳あたりが、人生でもっとも困難な運命の試練になっている。 でも、その試練を乗り越えたとき、文字通り“突然に”こんな光景が広がるのだ。  諸君はそのとき、生まれてはじめて、やさしさに包まれる喜びを知るだろう。 “創造性の覚醒”と“母性の覚醒”は、そこからはじまるのだ。
 (2020.06.05)
posted by ケンシロー氏 at 18:04| Comment(0) | バベル語の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする