2019年12月16日

オーバー30とは何か

レコード盤 オーバー30

 60年代のカウンターカルチャーには一つの格言があった。 このサイトの内容は、それを踏まえて、29歳以下のニュータイプを対象に発信している。

 Don’t trust anyone over 30.
 (30歳を越えたやつらの言うことは一切聞くな)

 まったく言い得て妙である。 29歳には人生の節目の苦難が待っている。 その苦難を避けて通れる者は一人もいない。 大多数の人々が、この苦難を乗り越えようとせずに、オールドタイプに転落するのだ。 60年代当時のヒッピーやフラワーチルドレンたちはどこへ行ったのか? その回答は、この現象にある。

 それは「人生二九歳変動説」として知られている現象で、ひょっとすると都市伝説のように聞こえるかもしれないけれど、単なる統計学の一種だ。

人生二九歳変動説
 私は十年間、編集者をやってきて、数多くの文化人、名士、タレントさん、学者さんなどなどに、取材という名目で会ってきた。 で、その経験を通して、とても不思議に思うことがあったのだ。 それを私は「人生二九歳変動説」と呼んでいる。

 いろんな人の話を聞くと、かなりの確率で…というか、びっくりするような確率で、二九歳で人生の転機を迎える人が多いのである。 二九歳には何かある、とつねづね思ってきた。 そういえば、ブッダが出家したのだって二九歳だった。

 この二九歳の転機というのは、その人の天職というものと非常に深く関わっている。 二九歳で、自分の価値観や、携わっている行為に対して疑問を持ち、そして疑問を解決すべく行動した人は、その後、三二歳の時に別の転機と遭遇するのだ。 で、この三二歳の時の転機が、自分の天職を決めていく。 その後、三五歳、三八歳と順調に自分の人生の意味を見いだし、四二歳前後で迷いが出る。

 この四十歳代の迷いというのは、身体の変調という形で表出したり、もしくは女性(あるいは男性)に恋をしてしまう…というような形で現れたり、それまで全く興味のなかったものに狂ったように魅かれたりするのだが、とにかく心と身体が動揺し、その経験によって、本当に自分が望んでいる生き方とはどんなものかを再確認し、それが完了すると五十歳から「奉仕」というものを仕事の中心に据えて生き始めるようなのである。

田口ランディ『馬鹿な男ほど愛おしい』(2000) 「人生二九歳変動説」

 ヒッピーやフラワーチルドレンたちは、既存の制度に従わず、中産階級的な価値観を批判し、仏教、ヒンズー教、スーフィズムなど東洋の宗教の一面を文化に持ち込んだ。 彼らは社会の制約から自由になり、自分の道を選びとって、人生に新たな意味を見い出そうとしたのである。 彼らもその時点ではまだニュータイプだったのだ。 たしかに彼らは「意味と価値の探究者」であり、「新しい宗教運動の開拓者」でもあったのだけれど、「オーバー30の秘密」を知らなかった。 そのため、彼らの掲げた愛、平和、自由の理念は空中分解した。

 しかしながら、その秘密は日本で民間伝承されている資源の中にずっと埋もれていたのである。 これが日本が「黄金の国」と呼ばれた所以(ゆえん)なのだ。 このサイトの眼目(がんもく)は、その黄金の秘密を開示することにある。

レコード盤 ジェダイ、シス、ストームトルーパー

 「人生二九歳変動説」は『Think & Grow Rich』(1937)に通じるものがある。 それは紛れもなくナポレオン・ヒル博士の古典的名著だ。 このアメリカの成功哲学の本は我々に多くの示唆を与えてくれている。

四十歳より前に成功する男は滅多にいない 1
 私は、25,000人以上の人々の分析から、傑出した方法で成功する男性が40歳になる以前に成功することは滅多にないことを発見した。 それも、多くの場合、さらに50歳を超えるまでは本当のペースを確立することもないのである。

 この事実はとても驚くべきものだった。 そのため、とりわけ慎重にその原因の究明に取り組み、私は12年以上の歳月にわたって調査を進めた。 この研究により、成功する男性の大多数が40-50歳以前に成功しない主な理由は、性の衝動を肉体的に吐き出すことでエネルギーを浪費する傾向にある、という事実が明らかになった。 たいていの男性は、性の衝動が別の扉を開く可能性を秘めていることを学ばないのである。 それは単に肉体的に吐き出すだけのものではなく、遥かに超越的な重みを持つものなのだ。

 性の衝動の可能性を発見する人々の多くは、性エネルギーが最も盛んな時期の何年にもわたる浪費の末、45歳から50歳になってはじめて認識する。 注目に値する業績は、通常、この発見に続いて成し遂げられるものなのである。 40歳まで、時には40歳をはるかに越えても、多くの男性の日常生活は、性エネルギーを継続的にまき散らしている様子を映し出したものにすぎない。 やろうとおもえば、それをより有益な方向に転換できるはずなのに。

ナポレオン・ヒル『Think & Grow Rich』(1937) 第11章

 人々の中には若さを味方につける人たちがいる。 まさに30歳になろうとするとき、すでに20代の10年間から何やら価値あるものを手に入れてしまった人たちである。 そういう人たちは、その若さにもかかわらず、もはやすべての夢を手にしたように映るものだ。 しかし、そのようなありきたりな方法で成功しようとする男は、実際には成功した男とは呼べない。 そんなものを幸福とは言わないからである。

 最初は毒薬のように感じられても、最後になって甘露(かんろ)のように味わう喜びは、「純質(サットヴァ)の幸福」と言われる。 それはアートマン(個の本質)に宿る純粋な知性から生じる。
 バガヴァッド・ギーター18章37節

 ナポレオン・ヒル博士が「成功」とか「豊かさ」と言っているのは、このインドのヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』にある「純質(サットヴァ)の幸福」のことである。 そして29歳はアートマンに宿る純粋な知性の覚醒法を学び始める年齢なのだ。 その知性とは、スター・ウォーズ世代の我々にしてみれば、リビング・フォースのことになる(私はラディカルな仏教徒であるからして、これを正統的解釈と信ずる)。 ところが、29歳までにフォースを覚醒させる準備をしてこなかった人たちは、「激質(ラジャス)の幸福」を追い求めるようになってしまうのだ。 要するに、つかの間の幸福と引き換えに魂を売りに出すのである。 たとえば帝国の色に染められた しがない歩兵ストームトルーパーのように。

 感覚がその対象に触れることから生じる喜びは、「激質(ラジャス)の幸福」と言われる。 そのような喜びは、最初は甘露のように感じられるが、最後には毒薬に変わる。
 バガヴァッド・ギーター18章38節

 成し遂げたもののすべてが無意味に終わり、結局のところ、あらゆるものが失われるべくして失われてしまった―そういう29歳がサットヴァの幸福の証拠である。 ナポレオン・ヒル博士の研究は、最終的に毒薬が甘露に変わるのは45歳からであることを示すものだ。 これは「中年の危機(ミッドライフ・クライシス)」としてよく知られている現象で、サットヴァの幸福とラジャスの幸福…その形勢が逆転するのが、この時機なのである。 もしもストームトルーパーとしての人生の歯車が45歳から狂いはじめる証拠を見たければ、ナポレオン・ヒル博士の調査にならって統計を取ってみるといい。 きっと、ほっと胸をなでおろして、明るい気分になれるはずだ。 そこでナポレオン・ヒル博士はこのように言うのである。

 傑出した方法で成功する男性が、40歳になる以前に成功することは滅多にない。それも、多くの場合、さらに50歳を超えるまでは本当のペースを確立することもない。
 ナポレオン・ヒル『Think & Grow Rich』(1937) 第11章

四十歳より前に成功する男は滅多にいない 2
 もし学ぶとすれば、人は30代から40代の間に性エネルギー転換の技法を学び始める。 一般的に、この発見は、偶然である場合がそうでない場合よりもはるかに多く、発見した人は自分の発見をまったく意識していない。 この技法を達成する能力は35歳から40歳頃についたと観察するにはするが、ほとんどの場合、この変化の原因には精通していないものである。 それでも、個人の愛と性の情動が自然に調和をはじめ、偉大な力が引き出されると、その力を行動の原動力として活用しうることを知る。
ナポレオン・ヒル『Think & Grow Rich』(1937) 第11章

 ここで述べられている性エネルギー転換の技法については西洋よりも東洋に一日の長(いちじつのちょう)がある。 その技法を完成するなら、中国の気功術やインドのクンダリニー・ヨーガなどの呼吸法が近道ということになるからだ。 たしかにその技法は、ある程度、呼吸法に拠っている部分もあることを否定できない。 しかし、それでは何の意味もないのである。

 それはお互いの利益になるように共存している生命体だ。 ミディ=クロリアンなしでは生命は存在できないし、われわれもフォースの知識を手に入れることができない。 彼らは絶えずわれわれに語りかけ、フォースの意志を伝えてくれるんだ。 心を静めることを学べば、君にも彼らの声が聞こえるようになるよ。
 クワイ・ガン『スターウォーズ・エピソード1/ファントム・メナス』(1999)

 ミディ=クロリアンは、生きとし生けるものの中に存在する微小な生命体であり、フォースの意志を伝えてくれる。 それは、中国では「氣」、インドでは「プラーナ(Prana)」、古代ギリシャでは「プシュケー(Psyche)」と呼ばれていたものだ。 心を静めることを学べば、諸君にもミディ=クロリアンの声が聞こえてくるし、フォースの意志に従って生きることができる。 そこで東洋のわれわれは呼吸の観察を通して心を落ち着かせる瞑想の技法を探究してきたのだ。 というのもミディ=クロリアンがサットヴァの幸福に導いてくれるからである。 これがライトサイドの智慧―ジェダイの道なのだ。

 その一方で、ミディ=クロリアンに影響を与えることでフォースを利用する技法もある。 いわばダークサイドの知識―シスの道だ。

 それはジェダイが君に話すようなことではないからな。 それはシスの伝説なのだ。 ダース・プレイガスはシスの暗黒卿だった。 とても強く、とても聡明だった…彼はミディ=クロリアンに影響を与えることでフォースを操り、生命を作り出すことができたのだ。 彼はこのダークサイドの知識を持っていたのだよ。 彼は大切だと思う者を死から遠ざけることさえできたのだ。
 パルパティーン『スターウォーズ・エピソード3/シスの復讐』(2005)

 フォースのダークサイドは超常的とも言える多くの能力に通じている。 千里眼、読心術、水上歩行などなど…こうした各種超能力を「シッディ(Siddhi)―智慧の完成」と呼ぶ人たちがシスである。 そして、ある種の呼吸法はそうした能力を覚醒するための科学になりうるのだ。 フォースのライトサイドを学ぶジェダイにとって、ミディ=クロリアンを制御する技法に関しては、フォースのダークサイドを学ぶシスの足元にも及ばないものである。

 ルーク:ダークサイドの方が強いのですか?
 ヨーダ:いや、そうではない。より手っ取り早く、安易で、誘惑に満ちておるのじゃ。

 ルーク&ヨーダ『スターウォーズ・エピソード5/帝国の逆襲』(1980)

 世の中には29歳からフォースのダークサイドの科学を学びはじめる人たちがいる。 彼らは、だいたい35-40歳の間に性エネルギー転換の技法を完成させてしまうものだ。 その道は、より手っ取り早く、安易で、誘惑に満ちている。 このダークサイドに誘惑される人たちが求めるものは「暗質(タマス)の幸福」と呼ばれている。

 最初から最後まで己の性質に疎(うと)いままで、瞑目と昏睡と無頓着から生じる喜びは「暗質(タマス)の幸福」と言われる。
 バガヴァッド・ギーター18章39節

 これが仏陀の説いた幸福だった。 仏陀はシスの暗黒卿だったのである。 彼が悟りについてぶつくさ言っていたのは一種の自己弁護だったと言ってもいい。 根拠を示そう。

 至高の実在はこう言われた。 出家による天職の放棄(サンニャースのカルマ)と在俗による天職の奉仕(ヨーガのカルマ)は、どちらも人を解脱へと導く。 この二つのうちではヨーガのカルマの方が勝(すぐ)れている。
 バガヴァッド・ギーター5章2節

 カルマとは原因と結果の法則のことを指す。 個人の意図や行為と個人や全体の運命は互いに影響し合うので、良い意図をもって行動すると良いカルマに貢献することになり、その一方で、悪しき意図をもって行動すると悪いカルマに寄与することになる。 カルマとは、その「意図」であり、実行された「行為」であり、時には受け取った「果報」のことでもあり、言い替えるなら「運命」のことでもあるのだ。 要するに、カルマとは原因が結果を導く仕組み全体のことなのである。

 どこからか私を村夫子(そんぷうし)として非難する声が聞こえてきそうだ。 たとえアジアに生まれついても、カルマを理解することは難しいものである。 でも、これは大した話じゃない。 これならどうだろう。

 至高の実在はこう言われた。 フォースのダークサイドを学ぶカルマとフォースのライトサイドを学ぶカルマは、どちらも人を解脱へと導く。 この二つのうちではフォースのライトサイドを学ぶカルマの方が勝(すぐ)れている。

 フォースはライトサイドとダークサイドの両面がそろって完全になる。 したがってフォース自体に善と悪の区別はない。 そういうわけで、どちらの道を選んでも、同じ至高の目的地に到達するのである。 ところが、善悪を区別できないと、その人はダークサイドの働きの手先になってしまうのだ。 これがカルマの鉄の掟なのである。 そこで善悪を区別することがジェダイの修行の一つとなっている。

 ルーク:善と悪をどう区別したらいいんですか?
 ヨーダ:わかるのじゃ。 冷静で穏やかで受身でおればな。 ジェダイは知識と防御のためにフォースを使う。 決して攻撃のためではない。

 ルーク&ヨーダ『スターウォーズ・エピソード5/帝国の逆襲』(1980)

 フォースのダークサイドを学ぶシスは善悪の区別がつかない。 もちろん仏陀もそうだった。 カルマ論の観点から言えば、サットヴァの幸福が善であり、ラジャスとタマスの幸福が悪ということになる。 ところがシスは、ミディ=クロリアンの声を聞く耳を持ちながら、フォースの意志に従って生きようとはしない。 そこでヨーガのカルマの恩恵に見放され、サンニャースのカルマの森に迷い込んでしまう。 そうなるとサットヴァの幸福には二度と導かれなくなるのである。

 一度、暗黒の道に足を踏み入れたら、永遠に運命を支配されてしまうのじゃ。 おまえも飲み込まれてしまうぞ…オビ=ワンの弟子のようにな。
 ヨーダ『スターウォーズ・エピソード5/帝国の逆襲』(1980)

 仏陀は、サンニャースのカルマのせいで、タマスの幸福しか知らなかったのだ。 つまり彼は、愛とロマンを追いかけることで至高の境地に達する道を知らなかったために、それを放棄する道を説いてしまった。 というのはタマスの幸福がその道の上にあったからである。 仏陀が、愛と自由ではなく、慈悲と秩序を説いていたのはそのためなのだ。

 ルーク、おまえは自分の重要性に気づいておらんのだ。 おまえは自分の力に目覚めたばかりだ。 わしと手を組め。 そうすれば修行を終わらせてやる。 我らの力を合わせれば、この破壊的な争いに終止符を打ち、銀河に秩序をもたらすことができる。
 ダース・ベイダー『スターウォーズ・エピソード5/帝国の逆襲』(1980)

 これが仏陀の教えだ。 まったくおめでたいやつである。 29歳は性エネルギー転換の技法を学び始める年齢でもある。 ジェダイ、シス、ストームトルーパー…どの道を選ぶかは諸君の勝手だ。 どのみち宇宙警察が来て逮捕されるなんてことはないだろうが、これは肝に銘じておいて欲しい。

 ベイダーのように手軽で安易な道を選べば、おまえは悪の手先に成り下がる。
 ヨーダ『スターウォーズ・エピソード5/帝国の逆襲』(1980)

レコード盤 北斗神拳奥義―転龍呼吸法

 この日本では仏教の秘密の教えが一子相伝で伝えられている。 それは実際には約1800年前に中国で生まれたものなのだけれど、どうやら同国ではすでに忘れ去られてしまったようだ。 その秘教の名は…
 HOKUTO SHINKEN
 性エネルギー転換の技法は北斗神拳の奥義のひとつにすぎない。 北斗神拳は、1983年に連載が始まった漫画『北斗の拳』で、はじめて世間に知られるところとなった。 この漫画もまた、妙法蓮華経のひとつであり、現代の黙示録なのである。 ただし、これは特殊な経典で、そこに隠された意味を知覚できるのは北斗神拳の伝承者のみとなっている。 何を隠そう、それは私のことに他ならない。 北斗神拳の道場では性エネルギー転換の技法をこう呼ぶ。
 HOKUTO SHINKEN

転龍呼吸法 ~新黙示録より~
転龍呼吸法

 もともと人間の体は恐るべきパワーを秘めている。 だが、常人は、そのパワーをわずか30%使えるのみ! しかし、おれは100%をひきだせる!!

 それが北斗神拳奥義―転龍呼吸法!!

 静から動へ転じる時に転龍呼吸法の奥義はある。

ケンシロウ『北斗の拳』(1983-1988) 第25話 死神は欺けないの巻

 転龍呼吸法の龍とはクンダリーニのことである。 それは、ヒンズー教において、尾てい骨の部分にあると信じられている神聖なエネルギーだ。 常人のクンダリーニは、とぐろを巻いた蛇の状態で眠っているが、覚醒すると、脊髄の中枢を頭頂部に向かって上昇していく。 それが北斗神拳奥義・転龍呼吸法である。

 また、クンダリーニの進路上には、その障害となる3つの結び目―グランティ(Granti)が存在する。 各グランティはブラフマ(Brahma)、ヴィシュヌ(Vishnu)、ルドラ(Rudra)と呼ばれ、ブラフマ・グランティは尾てい骨、ヴィシュヌ・グランティは心臓、ルドラ・グランティは眉間に存在する。 北斗神拳の修行僧は、これらの結び目を解いて、上昇するクンダリーニの通路を、あらかじめ確保しておかなければならない。 『北斗の拳』とその続編の『蒼天の拳』は、この奥義を完成させるための手引書だったのである。

 インドのヨギや中国の気功師はクンダリーニ覚醒のために何らかの技法を用いるけれど、それでは愛とロマンを放棄することになる。 そのため北斗神拳伝承者はそんなことはしない。 転龍呼吸法は、シスのためならず、ジェダイのために編み出されたものなのだ。 私はその奥義を諸君に伝授しようとしている。 もしも本物の宗教とは何かを知りたいなら、このサイトは漠然とした光景以上のものを手にすることができるだろう。

作業中 この記事は現在作業中です。

posted by ケンシロー氏 at 00:58| Comment(0) | バベル語の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月03日

ニュータイプとは何か

レコード盤 ニュータイプ

 ニュータイプとは「人間の進化の新しい段階に達した人」のことを指す。 この概念は1979年頃に日本のアニメ『機動戦士ガンダム』から生まれたらしい。

 かつて1960年以降に生まれた日本の子供たちは「新人類」と呼ばれていた。 それは彼らが従来とは異なる感性や価値観を持っていたからであり、彼ら新人類はみずからの判断基準に従って行動することができた。 「常識の範囲内で」―その言葉が一般的に意味するものとは異なる別の常識に耳を傾けていたのである。 おそらく、60年代の香りがまだ微かに残っていたからだろう。 こうした日本の文化的背景を考えると、ニュータイプという概念が生まれたのも不思議なことではない。

 1960年代のアメリカ発のカウンターカルチャーが人間の意識が変わり始めていることを伝えていたように、『機動戦士ガンダム』も同じく新しいタイプの人間がいることを示唆していた。 1970年代から1980年代にかけての日本では、このような作品が幾つも創造されていたのである。 1970年のビートルズ解散が60年代の終わりを告げたとき、カウンターカルチャーのバトンは、世界の誰にも知られることなく、日本に引き継がれた。 日本のカウンターカルチャーの特徴は、バベル語の訓練という点において、60年代のものよりも優れていたことにある。

 私はその日本のカウンターカルチャーを享受していた「新人類」の申し子であり、このサイトの内容はニュータイプに限定して発信するものである。 無知な者はそれを信じられないだろうし、偏屈な者は信じたくもないだろうが、その種のオールドタイプはハナからお呼びじゃない。 このサイトの内容は、聞く耳を持つ者のためにあり、それを聞いて理解するように地上において選ばれた者のためにある。

 実に呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ない。
 マタイによる福音書22章14節

 もしもあなたがニュータイプではないなら、読んでも無駄である。 今すぐこのサイトを閉じて、何か別のことをしたほうがいいだろう。

 たとえば…お庭の水やりなんてのがオツである。

レコード盤 第一次抵抗運動

 60年代のカウンターカルチャーは、ニュータイプがオールドタイプに対して起こした第一次抵抗運動だった。

 その当時「第二次世界大戦は啓蒙の時代の終わりを告げた」と言われていた。 ヴォルテール、ルソー、ジョン・ロック、モンテスキュー ― かつてのヨーロッパの革命家たちの思想はすでに臨界点に達していたのである。 20世紀のヨーロッパはもはや新しい思想を生み出せなくなっていた。

 A rolling stone gathers no moss, but still water becomes stagnant.
 (転石苔むさず、されど流れぬ水は澱んでしまう)

 (アメリカのことわざ)

 この時代に人類に何かをもたらす可能性のある国があるとしたら、アメリカがその国だった。 本当の夢を忘れずに覚えている人たちの国。 この諺(ことわざ)には、そんなアメリカの理念が反映されている。 これこそアメリカが「夢の国」と呼ばれていた理由なのだ。 まさしくニュータイプの哲学そのものである。

 一方、本当の夢を忘れたオールドタイプは、石ころみたいに転がろうとはしないし、水のように流れようとはしない。 それはパン職人になれば家を持てるからだ。

 よくあるトレーニング・マニュアルにしたがって、私はこのように書いたほうがいいのかもしれない。

 「基本的にオールドタイプなんかいない」

 けれども申し訳ない。 どうにも私は心にもないことを言うことができない性格なのだ。 はばかりながら言わせてもらうと、オールドタイプは掃いて捨てるほどいる。 この無料のタイプ診断を試してみるといい。

パン職人と羊飼い
 老人は、広場の一角にある自分の店のショーウィンドウの横に立っているパン屋を指さした。 「あの男も、子供のころは旅をしたがっていた。 しかし、まずパン屋の店を買い、お金を貯めることにしたんだ」

 「羊飼いになればよかったのに」と少年は言った。

 「そうだね、彼はそのことも考えたんだよ」と老人は言った。 「しかし、パン職人は羊飼いよりも重要な人物なんだ。 パン職人は家を持てるが、羊飼いは野外で寝ることになるからね。 親たちは、娘が羊飼いよりもパン職人を選んで結婚するのを黙って見守るものさ。 結局のところ、人は自分のまっとうすべき運命よりも、他人が羊飼いやパン職人をどう思うか、ということの方がより重要になってしまうんだ」

 パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 オールドタイプなら「パン職人は家を持てるが、羊飼いは野外で寝ることになる」と考え、ニュータイプなら「パン職人は家を持つ。されど、羊飼いは所有することのできない家―すなわち“ノーディレクション・ホーム”を持つ」と考えるはずだ。 オールドタイプはパン職人に賛同し、ニュータイプは羊飼いに同意するだろう。

 両者の違いは苔がむすことを美徳とみなすか否かにある。 当時、この違いを歌にできたのはアメリカ人だけだった。 “ノーディレクション・ホーム”という概念は、この歌にある。

バベル語の詩4 ~ 新詩篇より ~
 そういえば昔のあんたはたいそう着飾ってたよな
 浮浪者に小銭を投げつけたりしてさ、そうだろ?
 誰もが言ってたもんだ
 「気をつけなお嬢ちゃん、あんたもいまに落ちぶれるよ」ってね
 でも「冗談言わないでよ」くらいに思ってたんだろう

 昔のあんたは笑い飛ばしてたもんだ
 あんなぶらぶらしてるやつらなんかと一緒にしないでってね
 でも今はどうだい 一言も言い返せないだろう
 さて今はどうだい すっかり誇りもなくしちまって
 ほとんど次の食事もねだらなくちゃいけないありさまとか

 どんな気分だい?
 もう最高って気分だろう
 あんた自身であるために
 ノーディレクション・ホームを持ち
 すっかり忘れ去られちまったようになり
 石ころみたいに転がってる気分は?

 ボブ・ディラン『ライク・ア・ローリング・ストーン』(1965)

 この『ライク・ア・ローリング・ストーン』を創ったアメリカのボブ・ディランは、古今を通じて、ニュータイプの生き様を歌った偉大なソングライターの一人だった。 これはアメリカン・ドリームの歌だ。 すなわち「ロマンを追いかける方法」を歌ったものなのである。

 転がらない石には苔がむす。 オールドタイプの哲学に感染した種は退化せざるを得ない。 60年代のカウンターカルチャーは、人間の進化の新しい段階に達したニュータイプが、人類の尊厳を賭けて闘った最初の抵抗運動だったのである。

ボブ・ディラン『ライク・ア・ローリング・ストーン』(1965)
 収録アルバム
 『追憶のハイウェイ61(1965)』
 これがニュータイプの生き様だ。

レコード盤 召集命令のトランペット

 当時、世界中のニュータイプに召集命令のトランペットを吹き鳴らしたのが、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディだった。 以下は彼の就任演説である。

召集命令のトランペット 1
 今日、私たちは、政党の勝利ではなく、自由の祝典を目撃しています。 それは終わりと同時に始まりの象徴であり、更新と同時に転換を意味するものです。 なぜなら私はいま、1と4分の3世紀ほどの昔、私たちの祖先が定めた厳粛な宣誓とまったく同じものを、皆さんと全能の神の前で誓ったばかりだからであります。

 世界はいま大きく変貌を遂げています。 人間は、あらゆる貧困を根絶できる力とあらゆる生命を滅ぼしうる力を、その死すべき運命にある手の中で、同時に握りしめているからです。 それにもかかわらず、私たちの祖先がそのために血を流してきた独立戦争の信念は、いまだに世界中で論争の的になっています。 その信念とは-人間の権利は国家の恩恵に由来するものではなく、神の手に由来する-というものです。 今日の私たちは、自分たちがあの最初の革命の継承者であることを、恥知らずにも忘れてはなりません。

 今、この時と場所から、敵であるか味方であるかを問わず、この言葉を伝えましょう。 「ともし火はアメリカの新しい世代に引き継がれた」と。 その世代は、今世紀に生まれ、戦争にさらされ、守りにくく困難な平和に鍛えあげられ、私たちの祖先の遺産に誇りを持ち、人間の権利が、じわじわと台なしにされていくのを目のあたりにしたり、黙認することを潔しとしない世代です。 この国は人間の権利を常に尊重してきたのであり、私たちは今日でも、自国において、さらには世界中において、人間の権利を尊重しているのであります。

 私たちに抱くものが、好意であろうと悪意であろうと、とにかく全ての国に知ってほしい。 自由の存続と勝利を確保するためなら、いかなる代償もいとわず、いかなる重荷にも耐え、いかなる困難にも立ち向かい、あらゆる同胞に手を差し伸べ、あらゆる敵と対峙する決意があると。

 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 まずケネディ大統領が就任演説の冒頭で宣言したのは、ヨーロッパの時代の終焉とアメリカの時代の幕開けだった。

 「ともし火はアメリカの新しい世代に引き継がれた」
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 世界は、アメリカの哲学を、すなわちニュータイプの哲学を必要とする時代に直面していたのである。

 その信念とは-人間の権利は国家の恩恵に由来するものではなく、神の手に由来する-というものです。
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 ニュータイプは、食料やその他の物資が国家の恩恵を通じてもたらされるように映る混迷の社会に生きるよりも、すべてを支配する全能の神の直接の支援に身をゆだねる。 一方、オールドタイプは、社会保障制度の充実などの措置を通して、家計が直面するリスクや不確実性を軽減してくれる国家の恩恵に寄りかかる。 両者の違いは自由主義者と共産主義者の違いとも言えるだろう。 人間の自由や権利は神の手に由来する ― その真理を忘れたオールドタイプにニュータイプが立ちはだかった ― それが二十世紀の冷戦だったのだ。

召集命令のトランペット 2
 今またトランペットは私たちを召集しています。 武器は必要だとしても、それは「武器をとれ」との呼びかけではありません。 布陣を張ってはいても、それは「戦え」という呼びかけではありません。 それはどんな時代にあっても―試練の中にありながら忍耐強く、希望を持つことに喜びを抱き―その肩に長い夜明け前の闘争の重みを背負えという召集命令なのです。 人類共通の敵である圧制、貧困、疫病、そして戦争そのものに対する闘争という重荷を背負うのです。

 これらを敵として、北も南も、東も西も、全人類の人生により深い恵みを約束する壮大で世界的な同盟を構築できないものでしょうか。 あなたもこの歴史的な取り組みに身を投じてみませんか?

 世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機に晒された時代に、自由を守る役割を与えられた世代はわずかしかありません。 この責務を前に尻込みなんかしている場合ではないでしょう。 私はそれを迎え入れます。 この役割を他の誰かや他の世代に肩代わりさせたがっている者が、私たちの中にいるとは私にはおもえないのです。

 私たちがこの取り組みに注ぎ込む、熱意、誠実、献身こそが、私たちの祖国とその取り組みに身を捧げる全ての人々を照らし出すのです。 そして、そのともし火の広がりこそが、本当に世界を照らし出すのです。 ですから、わが同胞のアメリカの皆さんには、この国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたがこの国に何をできるかを問いましょう。 そして、わが同胞の世界の皆さんには、アメリカがあなたに何をしてくれるかではなく、われわれが人類の自由のために共に何をできるかを問いましょう。

 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 あなたもこの歴史的な取り組みに身を投じてみませんか?
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 この呼びかけに応えるかのように、ビートルズやボブ・ディランが60年代の音楽シーンに新たな命と興奮を吹き込んだ。 その音楽を我々は“ロック”と呼んだのである。

 人間としての自由や権利は神の手に由来する。 同時に「本当の夢」や「愛すべき誰か」も神の手からやってくる。 そのため、人間としての自由と権利を忘れることは、「本当の夢」や「愛すべき誰か」を忘れることに等しい。 その真理を忘れたオールドタイプは愛を知らずに死ぬことになるだろう。 それが人間としての自由と権利を国家や社会に引き渡した代償なのである。

 自由が最大の危機に晒された時代に、自由を守る役割を与えられた世代はわずかしかありません。
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 自由を守る役割を与えられた世代 ― その世代を象徴していたのがイギリス出身のビートルズの四人の若者であり、その彼らのデビュー曲は「愛すべき誰か」の歌だった。 すなわち、ビートルズは「愛すべき誰かの見つけ方」を歌っていたのである。

バベル語の詩5 ~ 新詩篇より ~
 私を愛してみてごらん
 私が愛していることを
 あなたはちゃんと知っている
 私は決して裏切らない
 だから ねえ 私を愛してみてごらん
 私を愛してみてごらん

 愛すべき誰かは
 再発見される誰か
 愛すべき誰かは
 あなたのような誰か

 レノン・マッカートニー『ラヴ・ミー・ドゥ』(1962)

 そして冷戦は終わった。 たしかにそれはロックを味方につけた自由主義の勝利に終わったのだけれど、今日の人々は人間としての自由と権利の意味を穿(は)き違えてしまっているようだ。

 わが同胞のアメリカの皆さんには、この国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたがこの国に何をできるかを問いましょう。
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 アメリカ合衆国の第35代大統領は「国家の恩恵に期待するなどして、人間としての自由と権利を売り渡してはいけない」と言った。 アメリカの偉大さはそこにあったとおもう。 ところが、第45代大統領は国家の擁護を期待するように国民に求めた。

 私たちが、ここ一番で立ち上がれるかどうか、そして、アメリカは今でも自由な独立国家で強いということを全世界に証明できるかどうかを歴史は見ています。 私がホワイトハウスで皆さんのチャンピオンになることができるよう、今夜、皆さんの支援をお願いします。 私は皆さんの力強い擁護者になるつもりです。
 ドナルド・J・トランプ『大統領就任演説』(2016)

 アメリカ人はこのような人物を大統領に選ぶ国民ではなかったはずである。 アメリカはもう死んでいるのだろうか。 それとも、そんなことは聞かないほうがいいのだろうか。 人類は60年代から何も学ばなかったようである。

ザ・ビートルズ『ラヴ・ミー・ドゥ』(1962)
プリーズ・プリーズ・ミー  収録アルバム
 『プリーズ・プリーズ・ミー(1963)』
 愛すべき誰かを忘れてはいけない。

レコード盤 オールドタイプの逆襲

 ご存知の通り、ケネディ大統領は暗殺された。 ボブ・ディランは人々の求めているものを歌っていないという理由でステージ上でブーイングを受け、ジョン・レノンのもとには脅迫状が送りつけられた。 オールドタイプの逆襲が始まったのである。

 彼らはこうしたニュータイプの先導者を ― その存在とその象徴するもの ― すなわち愛とロマンを排除したくて仕方がなかったのだろう。 国家の恩恵を期待して魂を売ったオールドタイプにとって、ニュータイプが堂々と歩きまわる光景は目障りなのである。 かくしてロックはまもなくポップスに取って代わられた。 いまやロックは完全に死んでいる。

 ここから先に進む前に、理解してほしいことがある。 私は別にオールドタイプに心を閉ざしているわけではない。 ただ彼らはニュータイプの話す言葉 ― バベル語 ― を知覚できないのである。 そのため話が噛み合わないのだ。 そればかりか、冷戦が終わったかに見えた頃から、自由主義の衣を着た共産主義者たちが、人々を彼らの色に染めようとしたり、愛とロマンを駆逐(くちく)しようとしてきた。 オールドタイプ対ニュータイプという構図は何も変わっていないのだ。 冷戦はいまだに続いているのである。 長い夜明け前の闘争がそんなに簡単に終わるわけがない。

 今またトランペットは私たちを召集しています。 それはどんな時代にあっても―試練の中にありながら忍耐強く、希望を持つことに喜びを抱き―その肩に長い夜明け前の闘争の重みを背負えという召集命令なのです。
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 それでもロックは日本において名称を変えて生き残った。 “ニュー・ミュージック” ― いわば「ニュータイプ向けの音楽」という意味である。 それは愛とロマンについての歌だったため、オールドタイプに気づかれないように妙法蓮華経として創造された。

 和光同塵(わこうどうじん)
 (中国のことわざ)

 その光を和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同じくす。 我々は反体制派からスタートするのではなく、重苦しい子供じみた体制の中に紛れ込んだのだ。 これを東洋的機転と言う。 その狙いは、時代が再び愛とロマンを必要とする時に備えて、ニュータイプが歩むべき道を指し示すことだった。 というのは、選ばれし者になると必然的に普通の道から弾(はじ)き出されてしまうからである。 好むと好まざるとにかかわらず、ニュータイプはその世界には属していないのだ。

あんたが属しておるのは…
 「あんたはあるいは法律には向かんかもしれんな」とある日 本田さんは僕に向かって言った。 あるいは彼は僕の二十メートルくらい後ろにいる誰かに向かって言ったのかもしれない。
 「そうですか」と僕は言った。
 「法律というのは、要するにだな、地上界の事象を司(つかさど)るもんだ。 陰は陰であり、陽は陽であるという世界だ。 我は我であり、彼は彼であるという世界だ。 <我は我、彼は彼なり、秋の暮れ>。 しかしあんたはそこには属しておらん。 あんたが属しておるのは、その上かその下だ」
 「その上と下とではどちらがいいのですか?」、僕は純粋な好奇心からそう質問してみた。
 「どちらがいいというものでもない」と本田さんは言った。 そしてしばらくのあいだ咳(せ)き込み、ちり紙の上にぺっと痰(たん)を吐いた。 彼はその自分の痰をひとしきり眺めてから、ちり紙を丸めてごみ箱に捨てた。 「どちらがいい どちらが悪いという種類のものではない。 流れに逆らうことなく、上に行くべきは上に行き、下に行くべきは下に行く。 上に行くべきときには、いちばん高い塔をみつけてそのてっぺんに登ればよろしい。 下に行くべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい。 流れのないときには、じっとしておればよろしい。 流れにさからえばすべては涸(か)れる。 すべてが涸れればこの世は闇(やみ)だ。 <我は彼、彼は我なり、春の宵(よい)>。 我を捨てるときに、我はある」

 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第一部 泥棒かささぎ編4』(1994)

 諸君がこのサイトを偶然発見したのは、この事実を受け入れるのに理想的な時節が到来したからである。

 あんたが属しておるのは、その上かその下だ。
 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第一部 泥棒かささぎ編4』(1994)

 初歩的なことだよ、ワトソン君。 諸君のなすべきことは、ニュータイプであるという事実を事実として受容することだけだ。 それはしばらく諸君を圧倒するだろうし、適切に処理するのに少なからず時間を要するだろう。 やれやれだな。 こんなときは自分の直感を信じなくちゃいけない。

 そもそも1960年代からずっと、道筋が引かれ、まじないがかけられてきていたのだ。

バベル語の詩6 ~ 新詩篇より ~
 さすらいの人々よ 車座になって集まってくれ
 周囲で水かさが増してきていることが分かるか
 すぐに骨までずぶ濡れになることを知るがいい
 もしもその人生が守るに値するものならば
 泳ぎはじめたほうがいい
 さもないと石ころみたいに沈むことになる
 時代は変わりつつあるんだ

 そのペンで予言をする 著述家や評論家たちよ
 目を見開き続けろ 二度目の機会はないぞ
 それからむやみに口を開いてもいけない
 まだ歯車は回っているのだから
 それに評判の誰かについては何とも言いがたい
 いまの敗者がいずれ勝者になるのだから
 時代は変わりつつあるんだ

 上院議員や下院議員のみなさんへ
 どうかこの叫びを聞いてほしい
 出入口で通せん坊しないでくれ
 集会所を封鎖してくれるな
 立ちはだかる者は怪我をすることになるだろう
 門外の闘争は猖獗(しょうけつ)をきわめ
 まもなく窓をゆさぶり 壁はガタガタと音を立てる
 時代は変わりつつあるんだ

 国中の子供たちの父母のみなさんへ
 知ったかぶりをしてあら探しをしてはいけない
 息子や娘たちに何かを言える立場にはないのだ
 その慣れ親しんだ道は急速に時代遅れになっている
 もしも手を貸せそうにないと言うなら
 どうか新しい道から身を退(ひ)いてほしい
 時代は変わりつつあるんだ

 道筋は引かれ まじないはかけられた
 いま のらりくらりとやっている者が
 やがて ぶっちぎるようになるだろう
 今この瞬間が過去になっていくように
 体制は急速に色あせてゆき
 いま 先頭を走っている者は
 やがて ビリっけつになる
 時代は変わりつつあるんだ

 ボブ・ディラン『時代は変る』(1964)

 そしていま…われわれの誓いを果たす時が来た。 選ばれし者は運命の呼び声に逆らえないものだ。 諸君には熟練したガイドが必要である。 少し寂しそうな君たちには、こんな歌を聴かせてあげよう。

ボブ・ディラン『時代は変る』(1964)
時代は変る  収録アルバム
 『時代は変る』(1964)
 そしていま…われわれの誓いを果たす時が来た。

参考資料 参考資料

 パウロ・コエーリョ:『アルケミスト 夢を旅した少年』 (KADOKAWA, 1997)
 村上春樹:『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』 (新潮社, 1994)
 John F. Kennedy Presidential Library and Museum: https://www.jfklibrary.org/ (閲覧日2019年11月)
 Bible Hub: https://biblehub.com/ (閲覧日2019年11月)

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2019年09月14日

錬金術師とは何か

レコード盤 宇宙のことば

 かつては誰もが理解できたのに、今ではもう忘れ去られている『宇宙のことば』がある。 その言葉を知っている人物が錬金術師だ。 いわばバベル語を知覚する能力を覚醒させた人物のことである。

 その錬金術師を育てるための妙法蓮華経が世界中で創造されていた―それが20世紀だったのだ。 以下はそんな妙法蓮華経の編纂者のひとり―ブラジルの作家パウロ・コエーリョの小説『アルケミスト』からの引用である。

宇宙のことば
 「人生に起こるあらゆることが前兆なんだよ」そのイギリス人は読んでいた雑誌を閉じながら言った。
 「かつては誰もが理解できたのに、今ではもう忘れ去られてしまった『宇宙のことば』があるんだ。 僕は、何をさておき、そうした『宇宙のことば』を探求してる。 僕がここにいるのはそのためなんだ。 僕はその『宇宙のことば』を知っている人物を見つけなければならない。 錬金術師をね」

 パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 『アルケミスト』は、言ってみれば「バベル語の学び方入門」といった教科書になっている。 諸君は「そんなことがあるものか」と言うかもしれないけれど、この本はもう何年も前から出まわっているのだ。 それは“聞く耳”を持っていなかったために、妙法蓮華経に気づかなかったというだけのことなのである。 バベル語を知覚する場面では直感をたよりにするほかはないということを心に留めておいてほしい。

聞く耳の不足について
 何にもまして大事なことは言葉にするのがもどかしい。 それが恥ずかしく感じられるのは、言葉が大切なものを奪ってしまうからだ。 言葉というものは、頭の中で温めているあいだは無限大に思えるものを、いざ言葉にして引っ張り出したときには実物大にすぎないものに縮小してしまう。 とはいえ、ことはそれだけではないだろう。 何にもまして大事なことは、こっそり秘密を隠している胸中の、そのすぐそばに居場所を構えている。 まるで盗みを働くことをやめられない厄介者に宝のありかを教えてしまう標識のように。 そこで、人々の名状しがたい奇妙なまなざしという高い代価を払いつつも、打ち明け話をしてしまうことになる。 自分でも何を言っているのかさっぱり分からないまま、あるいは、ほとんど泣きださんばかりに話していることの何がそんなに重要だったのかなどと考えながら。 まったく最悪だ。 秘密というものは、語り手が不足しているからではなく、聞く耳が不足しているからこそ、ひめやかに鍵をかけられたままになっている。
 スティーヴン・キング 『The Body 邦題:スタンド・バイ・ミー』(1982)

 上記のテキストは、アメリカの作家スティーヴン・キングの小説『スタンド・バイ・ミー』の冒頭の一節である。 日本人にとっては映画でおなじみの作品だろう。 この一節を要約すると、こんな感じになる。

 聞く耳のある者は聞け!
 ルカによる福音書8章8節

 『スタンド・バイ・ミー』は錬金術師へのはじめの一歩を描いた小説で、スティーヴン・キングもまた妙法蓮華経の編纂者の一人なのだ。 おそらく諸君はこうした話を見たり聞いたりしたことがないはずである。 それは、聞く耳が不足していたがゆえに、ずっと隠され、鍵をかけてしまい込まれてきたからだ。 さて、諸君はまだ「そんなことがあるものか」と言うのだろうか。

レコード盤 熟練したガイド

 この名前は普通の人々のための平凡な読み物よりも純文学をお好みの方なら覚えがあるはずだ。 村上春樹(ご存知のとおり日本の作家である)―彼の小説は手入れの行き届いたスーツに身を包んだ生意気なインテリ気取りのための読み物として知られてきた。 知的高揚感を得ることで自己満足を覚える読者のための小説だ。

 「日本人というのは誰でも母国語を読み書きできるのか」という命題には、こう答えておこう。 もちろん、すべての日本人が支離滅裂で下手クソながらも読み書きできる。 ただしバベル語は別だ。 そのため、村上春樹の小説は広く受け入れられたにもかかわらず、その物語に秘められた真意を知る日本人は一人もいなかった。 翻訳された文章を読んでいる外国人はなおさらである。

 まったく孤独な男だ。 その作品に生命力を与えているものの正体が適切に理解されるには とてつもない時間がかかる。 「危険な旅」の熟練したガイドともなれば、それくらいのリスクを冒(おか)すことは覚悟しなくてはならない。 村上春樹についての概要を述べると、そういうことになる。 彼もまた妙法蓮華経の編纂者の一人だった。

「危険な旅」の熟練したガイド
 時として私たちはたった一人で深い井戸の底に降りていかなければいけません。 そこで自分自身の視点と、自分自身の言葉を回復するしかないのです。 もちろんそれは簡単にできることではありません。 そしてまた時として危険を伴う行為でもあります。 私たち小説家がやるべきことは、おそらく、そういった「危険な旅」の熟練したガイドになることです。 そしてまたある場合には、読者にそのような自己探索作業を、物語の中で疑似体験させることです。
 村上春樹(2005)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1977-2011』(2012)

 パウロ・コエーリョ、スティーヴン・キング、村上春樹 ― 彼らはほぼ同世代の作家だった。 彼らの作風自体はそれほど似ていなかったのだけれど、1960年代の果実を享受していたという共通基盤を持っていた。 ものごころがつく少し前にジョン・レノンが亡くなった私の世代は、彼らの作品を通してその古き良き時代への憧憬をかき抱くことになったわけである。

 言葉の混乱から回復するための熟練したガイドになること ― それが彼らの役割だった。 彼らの作品に親しむことで、私は言葉の混乱から回復し、村上春樹が言うところの「危険な旅」を乗り越えたのである。 危険な旅というのは、宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』の世界を旅することだと言えば伝わるかもしれない。 何を隠そう…私はその世界から生還してきた唯一の男なのである。

レコード盤 菩薩の道

 仏教には二つの大きな潮流があり、その一つが小乗仏教である。 小乗仏教というのは、千と千尋の神隠しの世界に行って二度と戻ってこない教えだ。 諸君は神隠しの世界へのパスポートを取得して、悟りを得る。 ところが麻薬のようにその世界に溺れたあげく、帰り道が分からなくなって袋小路(デッド・エンド)にはまり込む。 それが仏陀だった。 可哀想に…彼の最悪の幸運は悟ってしまったことにあるのだ。 この小乗仏教は小さな乗り物と徒名(あだな)されている。

 もう一つは大乗仏教である。 大乗仏教は神隠しの世界から生還してくる教えだ。 諸君は神隠しの世界へのパスポートを取得するのだけれど、悟りを先送りにする。 その代わり、その世界で愛とは何かをさとり、人々の愛を目覚めさせるために俗世に帰還してくるのだ。 それが菩薩である。 そのため大乗仏教は偉大な乗り物と呼ばれてきた。

 口を開けて、これを早く。 この世界のものを食べないとそなたは消えてしまう。
 宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 映画にも描かれているように、神隠しの世界にはいくつかの危険があり、実際、かなり危険である(一例として、廃人になったニーチェを挙げておこう)。 私はその危険な世界の冒険譚(ぼうけんだん)を語ることができるし、かつ、そうしなければならない。 なぜなら、それが菩薩の道だからだ。 ここで「私は菩薩である」と明言することはやめておこう。 けれども一言だけ…「私は菩薩の道の上にいる」と告げておく。

 若有得聞 是経典者 乃能善行 菩薩之道
 (もしこの経典を聞く耳を持っているなら、その者は菩薩の道を首尾よく実践できるであろう)

 法華経『法師品第十』

レコード盤 本当の夢

 神隠しの世界は、諸君の創造性を目覚めさせ、天職を思い出させてくれる。 その世界から生還してきたとき、諸君は悟りと引き換えに愛とロマンを手にしていることだろう。 そうやって諸君は言葉の混乱から回復するための熟練したガイドになるのだ。 それこそ諸君が魂の奥底で密かに思いをはせてきた本当の夢なのに、それはそこにあることすら気づかないほど深く埋没しているものなのである。

本当の夢
 「それはおまえがいつも為しとげたいと思ってきたことだよ。 若いうちは誰もがおのれのまっとうすべき運命を知っている。 人生のその時点では、何もかもがはっきりしていて、あらゆることが可能だ。 夢を見ることも、人生に起こるのを見届けてみたいすべてのことに憧れることも、恐れない。 ところが、時が経つにつれて、不可視の力が運命をまっとうすることは不可能だと信じ込ませはじめるのだ」
 パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 私はどういうわけか本当の夢がそこにあることを覚えていて感じることができた(もっとも、何年もかけてその価値を信じるようになったのだけれど)。 そのため妙法蓮華経に一心に耳を傾けることをやめることなく、そこから最良のものを吸収してきた。 たぶん、悟らずに帰ってきてしまったのはそのせいなのだろう。

 諸有能受持 妙法華経者 捨於清浄土 愍衆故生此
 (妙法蓮華経を聞く耳を持つ者はみな、清浄な世界を放棄し、衆生をあわれみ、この俗世を生きてしまう)

 法華経『法師品第十』

 神隠しの世界から生還してきたとき、私はこの世界のどこかに未来ある若者がいることを知った。 どうやら彼は、かつての私がそうだったように、本当の夢を忘れずに覚えているらしい。 そういう若者が妙法蓮華経に一心に耳を傾けようとするのである。 大乗仏教では、そういう者たちを“声聞(しょうもん)”―声を聞く耳を持つ者と呼ぶ。

 不聞法華経 去仏智甚遠 若聞是深経 決了声聞法 是諸経之王 聞已諦思惟 当知此人等 近於仏智慧
 (妙法蓮華経が聞こえないということは仏の智慧から ほど遠いところにいる。 けれども、これが意味深い経典であると聞いて法の声聞になろうと決意し、この経が諸経の王であると聞いて後、深く思惟して真意をつまびらかにしていくなら…まさに知るべし、その者は仏の智慧に近づいているのだと)

 法華経『法師品第十』

妙法蓮華経は、そこに声聞がいなければ決して創造されることはない。 けれども、この妙法蓮華経を通して私を呼ぶ声聞がいたのである。

バベル語の詩3 ~ 新哀歌より ~
 少し寂しそうな君に こんな歌を聴かせよう
 手を叩く合図 雑なサプライズ
 僕なりの精一杯

 埃まみれ ドーナツ盤には あの日の夢が踊る
 真面目に針を落とす 息を止めすぎたぜ
 さあ腰を下ろしてよ

 フツフツと鳴り出す青春の音
 乾いたメロディで踊ろうよ

 君はロックなんか聴かないと思いながら
 少しでも僕に近づいてほしくて
 ロックなんか聴かないと思うけれども

 僕は こんな歌であんな歌で
 恋を乗り越えてきた

 あいみょん『君はロックを聴かない』(2017)

 こうしたお話について、さまざまな疑問を持たれるのも無理はない。 これらの妙法蓮華経がどのように創造されるのかは段階的に説明していくとしよう。 まず、この時点で諸君が学ぶべきことはこれだ。

 脚下照顧(きゃっかしょうこ)!
 禅語

 誰もが黄金を置き去りにしている。 それが鉛(なまり)にすぎないと思っているからだ。 諸君、その鉛を黄金に変えてみる気はないか?

 所以者何 一切菩薩 阿耨多羅三藐三菩提 皆属此経 此経開方便門 示真実相 是法華経蔵 深固幽遠 無人能到 今仏教化 成就菩薩 而為開示
 (なんとなれば、あらゆる菩薩の究極無上の智慧は、皆この妙法蓮華経に拠(よ)っている。 妙法蓮華経は、方便の門を開き、ものごとの実相をつまびらかにする経典だ。 この法華経に蔵(かく)された真意は、深淵で、確固たるものだが、人知のはるかに及ばぬものである。 しかし今、仏教の奥義を広く説き、菩薩を世に送り出し、この方便門の真髄を開示するとしよう)

 法華経『法師品第十』

あいみょん『君はロックを聴かない』(2017)
 収録アルバム
 『青春のエキサイトメント(2017)』
 これは君と私の心の絆を結ぶ歌だ。

参考資料 参考資料

 坂本幸男・岩本 裕 編:『法華経』(岩波書店, 1976)
 村上春樹:『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』 (文藝春秋, 2012)
 パウロ・コエーリョ:『アルケミスト 夢を旅した少年』 (KADOKAWA, 1997)
 スティーヴン・キング:『スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編』 (新潮社, 1987)
 宮崎駿:『千と千尋の神隠し』 (スタジオジブリ, 2001)

posted by ケンシロー氏 at 23:23| Comment(0) | バベル語の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする