2019年11月03日

ニュータイプとは何か

レコード盤 ニュータイプ

 ニュータイプとは「人間の進化の新しい段階に達した人」のことを指す。 この概念は1979年頃に日本のアニメ『機動戦士ガンダム』から生まれたらしい。

 かつて1960年以降に生まれた日本の子供たちは「新人類」と呼ばれていた。 それは彼らが従来とは異なる感性や価値観を持っていたからであり、彼ら新人類はみずからの判断基準に従って行動することができた。 「常識の範囲内で」―その言葉が一般的に意味するものとは異なる別の常識に耳を傾けていたのである。 おそらく、60年代の香りがまだ微かに残っていたからだろう。 こうした日本の文化的背景を考えると、ニュータイプという概念が生まれたのも不思議なことではない。

 1960年代のアメリカ発のカウンターカルチャーが人間の意識が変わり始めていることを伝えていたように、『機動戦士ガンダム』も同じく新しいタイプの人間がいることを示唆していた。 1970年代から1980年代にかけての日本では、このような作品が幾つも創造されていたのである。 1970年のビートルズ解散が60年代の終わりを告げたとき、カウンターカルチャーのバトンは、世界の誰にも知られることなく、日本に引き継がれた。 日本のカウンターカルチャーの特徴は、バベル語の訓練という点において、60年代のものよりも優れていたことにある。

 私はその日本のカウンターカルチャーを享受していた「新人類」の申し子であり、このサイトの内容はニュータイプに限定して発信するものである。 無知な者はそれを信じられないだろうし、偏屈な者は信じたくもないだろうが、その種のオールドタイプはハナからお呼びじゃない。 このサイトの内容は、聞く耳を持つ者のためにあり、それを聞いて理解するように地上において選ばれた者のためにある。

 実に呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ない。
 マタイによる福音書22章14節

 もしもあなたがニュータイプではないなら、読んでも無駄である。 今すぐこのサイトを閉じて、何か別のことをしたほうがいいだろう。

 たとえば…お庭の水やりなんてのがオツである。

レコード盤 第一次抵抗運動

 60年代のカウンターカルチャーは、ニュータイプがオールドタイプに対して起こした第一次抵抗運動だった。

 その当時「第二次世界大戦は啓蒙の時代の終わりを告げた」と言われていた。 ヴォルテール、ルソー、ジョン・ロック、モンテスキュー ― かつてのヨーロッパの革命家たちの思想はすでに臨界点に達していたのである。 20世紀のヨーロッパはもはや新しい思想を生み出せなくなっていた。

 A rolling stone gathers no moss, but still water becomes stagnant.
 (転石苔むさず、されど流れぬ水は澱んでしまう)

 (アメリカのことわざ)

 この時代に人類に何かをもたらす可能性のある国があるとしたら、アメリカがその国だった。 本当の夢を忘れずに覚えている人たちの国。 この諺(ことわざ)には、そんなアメリカの理念が反映されている。 これこそアメリカが「夢の国」と呼ばれていた理由なのだ。 まさしくニュータイプの哲学そのものである。

 一方、本当の夢を忘れたオールドタイプは、石ころみたいに転がろうとはしないし、水のように流れようとはしない。 それはパン職人になれば家を持てるからだ。

 よくあるトレーニング・マニュアルにしたがって、私はこのように書いたほうがいいのかもしれない。

 「基本的にオールドタイプなんかいない」

 けれども申し訳ない。 どうにも私は心にもないことを言うことができない性格なのだ。 はばかりながら言わせてもらうと、オールドタイプは掃いて捨てるほどいる。 この無料のタイプ診断を試してみるといい。

パン職人と羊飼い
 老人は、広場の一角にある自分の店のショーウィンドウの横に立っているパン屋を指さした。 「あの男も、子供のころは旅をしたがっていた。 しかし、まずパン屋の店を買い、お金を貯めることにしたんだ」

 「羊飼いになればよかったのに」と少年は言った。

 「そうだね、彼はそのことも考えたんだよ」と老人は言った。 「しかし、パン職人は羊飼いよりも重要な人物なんだ。 パン職人は家を持てるが、羊飼いは野外で寝ることになるからね。 親たちは、娘が羊飼いよりもパン職人を選んで結婚するのを黙って見守るものさ。 結局のところ、人は自分のまっとうすべき運命よりも、他人が羊飼いやパン職人をどう思うか、ということの方がより重要になってしまうんだ」

 パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 オールドタイプなら「パン職人は家を持てるが、羊飼いは野外で寝ることになる」と考え、ニュータイプなら「パン職人は家を持つ。されど、羊飼いは所有することのできない家―すなわち“ノーディレクション・ホーム”を持つ」と考えるはずだ。 オールドタイプはパン職人に賛同し、ニュータイプは羊飼いに同意するだろう。

 両者の違いは苔がむすことを美徳とみなすか否かにある。 当時、この違いを歌にできたのはアメリカ人だけだった。 “ノーディレクション・ホーム”という概念は、この歌にある。

バベル語の詩4 ~ 新詩篇より ~
 そういえば昔のあんたはたいそう着飾ってたよな
 浮浪者に小銭を投げつけたりしてさ、そうだろ?
 誰もが言ってたもんだ
 「気をつけなお嬢ちゃん、あんたもいまに落ちぶれるよ」ってね
 でも「冗談言わないでよ」くらいに思ってたんだろう

 昔のあんたは笑い飛ばしてたもんだ
 あんなぶらぶらしてるやつらなんかと一緒にしないでってね
 でも今はどうだい 一言も言い返せないだろう
 さて今はどうだい すっかり誇りもなくしちまって
 ほとんど次の食事もねだらなくちゃいけないありさまとか

 どんな気分だい?
 もう最高って気分だろう
 あんた自身であるために
 ノーディレクション・ホームを持ち
 すっかり忘れ去られちまったようになり
 石ころみたいに転がってる気分は?

 ボブ・ディラン『ライク・ア・ローリング・ストーン』(1965)

 この『ライク・ア・ローリング・ストーン』を創ったアメリカのボブ・ディランは、古今を通じて、ニュータイプの生き様を歌った偉大なソングライターの一人だった。 彼はロマンを追いかける方法を歌ったのである。

 転がらない石には苔がむす。 オールドタイプの哲学に感染した種は退化せざるを得ない。 60年代のカウンターカルチャーは、人間の進化の新しい段階に達したニュータイプが、人類の尊厳を賭けて闘った最初の抵抗運動だったのである。

ボブ・ディラン『ライク・ア・ローリング・ストーン』(1965)
 収録アルバム
 『追憶のハイウェイ61(1965)』
 これがニュータイプの生き様だ。

レコード盤 アメリカはもう死んでいる…?

 当時、世界中のニュータイプに召集命令のトランペットを吹き鳴らしたのが、ジョン・F・ケネディ大統領だった。 以下は彼の就任演説である。

ニュータイプへの召集命令 1
 今日、私たちは、政党の勝利ではなく、自由の祝典を目撃しています。 それは終わりと同時に始まりの象徴であり、更新と同時に転換を意味するものです。 なぜなら私はいま、1と4分の3世紀ほどの昔、私たちの祖先が定めた厳粛な宣誓とまったく同じものを、皆さんと全能の神の前で誓ったばかりだからであります。

 世界はいま大きく変貌を遂げています。 人間は、あらゆる貧困を根絶できる力とあらゆる生命を滅ぼしうる力を、その死すべき運命にある手の中で、同時に握りしめているからです。 それにもかかわらず、私たちの祖先がそのために血を流してきた独立戦争の信念は、いまだに世界中で論争の的になっています。 その信念とは-人間の権利は国家の恩恵に由来するものではなく、神の手に由来する-というものです。 今日の私たちは、自分たちがあの最初の革命の継承者であることを、恥知らずにも忘れてはなりません。

 今、この時と場所から、敵であるか味方であるかを問わず、この言葉を伝えましょう。 「ともし火はアメリカの新しい世代に引き継がれた」と。 その世代は、今世紀に生まれ、戦争にさらされ、守りにくく困難な平和に鍛えあげられ、私たちの祖先の遺産に誇りを持ち、人間の権利が、じわじわと台なしにされていくのを目のあたりにしたり、黙認することを潔しとしない世代です。 この国は人間の権利を常に尊重してきたのであり、私たちは今日でも、自国において、さらには世界中において、人間の権利を尊重しているのであります。

 私たちに抱くものが、好意であろうと悪意であろうと、とにかく全ての国に知ってほしい。 自由の存続と勝利を確保するためなら、いかなる代償もいとわず、いかなる重荷にも耐え、いかなる困難にも立ち向かい、あらゆる同胞に手を差し伸べ、あらゆる敵と対峙する決意があると。

 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 まずケネディ大統領が就任演説の冒頭で宣言したのは、ヨーロッパの時代の終焉とアメリカの時代の夜明けだった。

 「ともし火はアメリカの新しい世代に引き継がれた」
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 世界は、アメリカの哲学を、すなわちニュータイプの哲学を必要とする時代に直面していたのである。

 その信念とは-人間の権利は国家の恩恵に由来するものではなく、神の手に由来する-というものです。
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 ニュータイプは、食料やその他の物資が国家の恩恵を通じてもたらされる混乱した社会に生きるよりも、すべてを支配する全能の神の直接の支援に身をゆだねる。 一方、オールドタイプは、社会保障制度の充実などの措置を通して、家計が直面するリスクや不確実性を軽減してくれる国家の恩恵に寄りかかる。 両者の違いは自由主義者と共産主義者の違いとも言えるだろう。 人間の自由や権利は神の手に由来する ― その真理を忘れたオールドタイプにニュータイプが立ちはだかった ― それが二十世紀の冷戦だったのだ。

ニュータイプへの召集命令 2
 今またトランペットは私たちを召集しています。 武器は必要だとしても、それは「武器をとれ」との呼びかけではありません。 布陣を張ってはいても、それは「戦え」という呼びかけではありません。 それは「その肩に長い夜明け前の闘争の重みを背負え」という召集命令なのです。 どんな時代にあっても―試練の中にありながら忍耐強く、希望を持つことに喜びを抱き― 人類共通の敵である圧制、貧困、疫病、そして戦争そのものに対する闘争という重荷を背負うのです。

 これらを敵として、北も南も、東も西も、全人類の人生により深い恵みを約束する壮大で世界的な同盟を構築できないものでしょうか。 あなたもこの歴史的な取り組みに身を投じてみませんか?

 世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機に晒された時代に、自由を守る役割を与えられた世代はわずかしかありません。 この責務を前に尻込みなんかしている場合ではないでしょう。 私はそれを迎え入れます。 この役割を他の誰かや他の世代に肩代わりさせたがっている者が、私たちの中にいるとは私にはおもえないのです。

 私たちがこの取り組みに注ぎ込む、熱意、誠実、献身こそが、私たちの祖国とその取り組みに身を捧げる全ての人々を照らし出すのです。 そして、そのともし火の広がりこそが、本当に世界を照らし出すのです。 ですから、わが同胞のアメリカの皆さんには、この国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたがこの国に何をできるかを問いましょう。 そして、わが同胞の世界の皆さんには、アメリカがあなたに何をしてくれるかではなく、われわれが人類の自由のために共に何をできるかを問いましょう。

 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 あなたもこの歴史的な取り組みに身を投じてみませんか?
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 この呼びかけに応えるかのように、ビートルズやボブ・ディランが60年代の音楽シーンに新たな命と興奮を吹き込んだ。 それがロックである。

 自由が最大の危機に晒された時代に、自由を守る役割を与えられた世代はわずかしかありません。
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 人間としての自由や権利は神の手に由来する ― その道理を忘れたオールドタイプは愛を知らずに死ぬことになる。 神の手によって与えられた本当の夢を実現する自由と権利を忘れることは「愛すべき誰か」を忘れることに等しいからだ。 それが、人間としての自由と権利を国家や社会に引き渡した代償なのである。

 自由を守る役割を与えられた世代 ― その世代を象徴していたのがビートルズの四人の若者で、その彼らがデビュー曲で歌ったのは「愛すべき誰か」のことだった。 ビートルズの歌は「愛すべき人の見つけ方」になっていたのである。

バベル語の詩5 ~ 新詩篇より ~
 私を愛してみてごらん
 私が愛していることを
 あなたはちゃんと知っている
 私は決して裏切らない
 だから ねえ 私を愛してみてごらん
 私を愛してみてごらん

 愛すべき誰かは
 再発見される誰か
 愛すべき誰かは
 あなたのような誰か

 レノン・マッカートニー『ラヴ・ミー・ドゥ』(1962)

 そして冷戦は終わった。 たしかにそれは愛とロマンを味方につけた自由主義の勝利に終わったのだけれど、今日の人々は人間の自由と権利の意味を穿(は)き違えてしまっている。

 わが同胞のアメリカの皆さんには、この国があなたに何をしてくれるかではなく、あなたがこの国に何をできるかを問いましょう。 そして、わが同胞の世界の皆さんには、アメリカがあなたに何をしてくれるかではなく、われわれが人類の自由のために共に何をできるかを問いましょう。
 ジョン・F・ケネディ『大統領就任演説』(1961)

 アメリカ合衆国の第35代大統領は「国家の恩恵に期待するなどして、人間としての自由と権利を売り渡してはいけない」と言った。 アメリカの偉大さはそこにあったとおもう。 ところが、第45代大統領は「国家の擁護を期待してくれ」と言った。 アメリカ人はこのような人物を大統領に選ぶ国民ではなかったはずである。

 私たちが、ここ一番で立ち上がれるかどうか、そして、アメリカは今でも自由な独立国家で強いということを全世界に証明できるかどうかを歴史は見ています。 私がホワイトハウスで皆さんのチャンピオンになることができるよう、今夜、皆さんの支援をお願いします。 私は皆さんの力強い擁護者になるつもりです。
 ドナルド・J・トランプ『大統領就任演説』(2016)

 アメリカはもう死んでいるのだろうか。 人類が60年代から学ぶべきことはまだまだ沢山ある。

ザ・ビートルズ『ラヴ・ミー・ドゥ』(1962)
プリーズ・プリーズ・ミー  収録アルバム
 『プリーズ・プリーズ・ミー(1963)』
 自由を守る役割を与えられた世代のシンボル

作業中 この記事は現在作業中です。

posted by ケンシロー氏 at 01:33| Comment(0) | バベル語の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月14日

錬金術師とは何か

レコード盤 宇宙のことば

 かつては誰もが理解できたのに、今ではもう忘れ去られている『宇宙のことば』がある。 その言葉を知っている人物が錬金術師だ。 いわばバベル語を知覚する能力を覚醒させた人物のことである。

 その錬金術師を育てるための妙法蓮華経が世界中で創造されていた―それが20世紀だったのだ。 以下はそんな妙法蓮華経の編纂者のひとり―ブラジルの作家パウロ・コエーリョの小説『アルケミスト』からの引用である。

宇宙のことば
 「人生に起こるあらゆることが前兆なんだよ」そのイギリス人は読んでいた雑誌を閉じながら言った。
 「かつては誰もが理解できたのに、今ではもう忘れ去られてしまった『宇宙のことば』があるんだ。 僕は、何をさておき、そうした『宇宙のことば』を探求してる。 僕がここにいるのはそのためなんだ。 僕はその『宇宙のことば』を知っている人物を見つけなければならない。 錬金術師をね」

 パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 『アルケミスト』は、言ってみれば「バベル語の学び方入門」といった教科書になっている。 諸君は「そんなことがあるものか」と言うかもしれないけれど、この本はもう何年も前から出まわっているのだ。 それは“聞く耳”を持っていなかったために、妙法蓮華経に気づかなかったというだけのことなのである。 バベル語を知覚する場面では直感をたよりにするほかはないということを心に留めておいてほしい。

聞く耳の不足について
 何にもまして大事なことは言葉にするのがもどかしい。 それが恥ずかしく感じられるのは、言葉が大切なものを奪ってしまうからだ。 言葉というものは、頭の中で温めているあいだは無限大に思えるものを、いざ言葉にして引っ張り出したときには実物大にすぎないものに縮小してしまう。 とはいえ、ことはそれだけではないだろう。 何にもまして大事なことは、こっそり秘密を隠している胸中の、そのすぐそばに居場所を構えている。 まるで盗みを働くことをやめられない厄介者に宝のありかを教えてしまう標識のように。 そこで、人々の名状しがたい奇妙なまなざしという高い代価を払いつつも、打ち明け話をしてしまうことになる。 自分でも何を言っているのかさっぱり分からないまま、あるいは、ほとんど泣きださんばかりに話していることの何がそんなに重要だったのかなどと考えながら。 まったく最悪だ。 秘密というものは、語り手が不足しているからではなく、聞く耳が不足しているからこそ、ひめやかに鍵をかけられたままになっている。
 スティーヴン・キング 『The Body 邦題:スタンド・バイ・ミー』(1982)

 上記のテキストは、アメリカの作家スティーヴン・キングの小説『スタンド・バイ・ミー』の冒頭の一節である。 日本人にとっては映画でおなじみの作品だろう。 この一節を要約すると、こんな感じになる。

 聞く耳のある者は聞け!
 ルカによる福音書8章8節

 『スタンド・バイ・ミー』は錬金術師へのはじめの一歩を描いた小説で、スティーヴン・キングもまた妙法蓮華経の編纂者の一人なのだ。 おそらく諸君はこうした話を見たり聞いたりしたことがないはずである。 それは、聞く耳が不足していたがゆえに、ずっと隠され、鍵をかけてしまい込まれてきたからだ。 さて、諸君はまだ「そんなことがあるものか」と言うのだろうか。

レコード盤 熟練したガイド

 この名前は普通の人々のための平凡な読み物よりも純文学をお好みの方なら覚えがあるはずだ。 村上春樹(ご存知のとおり日本の作家である)―彼の小説は手入れの行き届いたスーツに身を包んだ生意気なインテリ気取りのための読み物として知られてきた。 知的高揚感を得ることで自己満足を覚える読者のための小説だ。

 「日本人というのは誰でも母国語を読み書きできるのか」という命題には、こう答えておこう。 もちろん、すべての日本人が支離滅裂で下手クソながらも読み書きできる。 ただしバベル語は別だ。 そのため、村上春樹の小説は広く受け入れられたにもかかわらず、その物語に秘められた真意を知る日本人は一人もいなかった。 翻訳された文章を読んでいる外国人はなおさらである。

 まったく孤独な男だ。 その作品に生命力を与えているものの正体が適切に理解されるには とてつもない時間がかかる。 「危険な旅」の熟練したガイドともなれば、それくらいのリスクを冒(おか)すことは覚悟しなくてはならない。 村上春樹についての概要を述べると、そういうことになる。 彼もまた妙法蓮華経の編纂者の一人だった。

「危険な旅」の熟練したガイド
 時として私たちはたった一人で深い井戸の底に降りていかなければいけません。 そこで自分自身の視点と、自分自身の言葉を回復するしかないのです。 もちろんそれは簡単にできることではありません。 そしてまた時として危険を伴う行為でもあります。 私たち小説家がやるべきことは、おそらく、そういった「危険な旅」の熟練したガイドになることです。 そしてまたある場合には、読者にそのような自己探索作業を、物語の中で疑似体験させることです。
 村上春樹(2005)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1977-2011』(2012)

 パウロ・コエーリョ、スティーヴン・キング、村上春樹 ― 彼らはほぼ同世代の作家だった。 彼らの作風自体はそれほど似ていなかったのだけれど、1960年代の果実を享受していたという共通基盤を持っていた。 ものごころがつく少し前にジョン・レノンが亡くなった私の世代は、彼らの作品を通してその古き良き時代への憧憬をかき抱くことになったわけである。

 言葉の混乱から回復するための熟練したガイドになること ― それが彼らの役割だった。 彼らの作品に親しむことで、私は言葉の混乱から回復し、村上春樹が言うところの「危険な旅」を乗り越えたのである。 危険な旅というのは、宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』の世界を旅することだと言えば伝わるかもしれない。 何を隠そう…私はその世界から生還してきた唯一の男なのである。

レコード盤 菩薩の道

 仏教には二つの大きな潮流があり、その一つが小乗仏教である。 小乗仏教というのは、千と千尋の神隠しの世界に行って二度と戻ってこない教えだ。 諸君は神隠しの世界へのパスポートを取得して、悟りを得る。 ところが麻薬のようにその世界に溺れたあげく、帰り道が分からなくなって袋小路(デッド・エンド)にはまり込む。 それが仏陀だった。 可哀想に…彼の最悪の幸運は悟ってしまったことにあるのだ。 この小乗仏教は小さな乗り物と徒名(あだな)されている。

 もう一つは大乗仏教である。 大乗仏教は神隠しの世界から生還してくる教えだ。 諸君は神隠しの世界へのパスポートを取得するのだけれど、悟りを先送りにする。 その代わり、その世界で愛とは何かをさとり、人々の愛を目覚めさせるために俗世に帰還してくるのだ。 それが菩薩である。 そのため大乗仏教は偉大な乗り物と呼ばれてきた。

 口を開けて、これを早く。 この世界のものを食べないとそなたは消えてしまう。
 宮崎駿『千と千尋の神隠し』(2001)

 映画にも描かれているように、神隠しの世界にはいくつかの危険があり、実際、かなり危険である(一例として、廃人になったニーチェを挙げておこう)。 私はその危険な世界の冒険譚(ぼうけんだん)を語ることができるし、かつ、そうしなければならない。 なぜなら、それが菩薩の道だからだ。 ここで「私は菩薩である」と明言することはやめておこう。 けれども一言だけ…「私は菩薩の道の上にいる」と告げておく。

 若有得聞 是経典者 乃能善行 菩薩之道
 (もしこの経典を聞く耳を持っているなら、その者は菩薩の道を首尾よく実践できるであろう)

 法華経『法師品第十』

レコード盤 本当の夢

 神隠しの世界は、諸君の創造性を目覚めさせ、天職を思い出させてくれる。 その世界から生還してきたとき、諸君は悟りと引き換えに愛とロマンを手にしていることだろう。 そうやって諸君は言葉の混乱から回復するための熟練したガイドになるのだ。 それこそ諸君が魂の奥底で密かに思いをはせてきた本当の夢なのに、それはそこにあることすら気づかないほど深く埋没しているものなのである。

本当の夢
 「それはおまえがいつも為しとげたいと思ってきたことだよ。 若いうちは誰もがおのれのまっとうすべき運命を知っている。 人生のその時点では、何もかもがはっきりしていて、あらゆることが可能だ。 夢を見ることも、人生に起こるのを見届けてみたいすべてのことに憧れることも、恐れない。 ところが、時が経つにつれて、不可視の力が運命をまっとうすることは不可能だと信じ込ませはじめるのだ」
 パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(1988)

 私はどういうわけか本当の夢がそこにあることを覚えていて感じることができた(もっとも、何年もかけてその価値を信じるようになったのだけれど)。 そのため妙法蓮華経に一心に耳を傾けることをやめることなく、そこから最良のものを吸収してきた。 たぶん、悟らずに帰ってきてしまったのはそのせいなのだろう。

 諸有能受持 妙法華経者 捨於清浄土 愍衆故生此
 (妙法蓮華経を聞く耳を持つ者はみな、清浄な世界を放棄し、衆生をあわれみ、この俗世を生きてしまう)

 法華経『法師品第十』

 神隠しの世界から生還してきたとき、私はこの世界のどこかに未来ある若者がいることを知った。 どうやら彼は、かつての私がそうだったように、本当の夢を忘れずに覚えているらしい。 そういう若者が妙法蓮華経に一心に耳を傾けようとするのである。 大乗仏教では、そういう者たちを“声聞(しょうもん)”―声を聞く耳を持つ者と呼ぶ。

 不聞法華経 去仏智甚遠 若聞是深経 決了声聞法 是諸経之王 聞已諦思惟 当知此人等 近於仏智慧
 (妙法蓮華経が聞こえないということは仏の智慧から ほど遠いところにいる。 けれども、これが意味深い経典であると聞いて法の声聞になろうと決意し、この経が諸経の王であると聞いて後、深く思惟して真意をつまびらかにしていくなら…まさに知るべし、その者は仏の智慧に近づいているのだと)

 法華経『法師品第十』

妙法蓮華経は、そこに声聞がいなければ決して創造されることはない。 けれども、この妙法蓮華経を通して私を呼ぶ声聞がいたのである。

バベル語の詩3 ~ 新哀歌より ~
 少し寂しそうな君に こんな歌を聴かせよう
 手を叩く合図 雑なサプライズ
 僕なりの精一杯

 埃まみれ ドーナツ盤には あの日の夢が踊る
 真面目に針を落とす 息を止めすぎたぜ
 さあ腰を下ろしてよ

 フツフツと鳴り出す青春の音
 乾いたメロディで踊ろうよ

 君はロックなんか聴かないと思いながら
 少しでも僕に近づいてほしくて
 ロックなんか聴かないと思うけれども

 僕は こんな歌であんな歌で
 恋を乗り越えてきた

 あいみょん『君はロックを聴かない』(2017)

 こうしたお話について、さまざまな疑問を持たれるのも無理はない。 これらの妙法蓮華経がどのように創造されるのかは段階的に説明していくとしよう。 まず、この時点で諸君が学ぶべきことはこれだ。

 脚下照顧(きゃっかしょうこ)!
 禅語

 誰もが黄金を置き去りにしている。 それが鉛(なまり)にすぎないと思っているからだ。 諸君、その鉛を黄金に変えてみる気はないか?

 所以者何 一切菩薩 阿耨多羅三藐三菩提 皆属此経 此経開方便門 示真実相 是法華経蔵 深固幽遠 無人能到 今仏教化 成就菩薩 而為開示
 (なんとなれば、あらゆる菩薩の究極無上の智慧は、皆この妙法蓮華経に拠(よ)っている。 妙法蓮華経は、方便の門を開き、ものごとの実相をつまびらかにする経典だ。 この法華経に蔵(かく)された真意は、深淵で、確固たるものだが、人知のはるかに及ばぬものである。 しかし今、仏教の奥義を広く説き、菩薩を世に送り出し、この方便門の真髄を開示するとしよう)

 法華経『法師品第十』

あいみょん『君はロックを聴かない』(2017)
 収録アルバム
 『青春のエキサイトメント(2017)』
 これは君と私の心の絆を結ぶ歌だ。

参考資料 参考資料

 坂本幸男・岩本 裕 編:『法華経』(岩波書店, 1976)
 村上春樹:『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』 (文藝春秋, 2012)
 パウロ・コエーリョ:『アルケミスト 夢を旅した少年』 (KADOKAWA, 1997)
 スティーヴン・キング:『スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編』 (新潮社, 1987)
 宮崎駿:『千と千尋の神隠し』 (スタジオジブリ, 2001)

posted by ケンシロー氏 at 23:23| Comment(0) | バベル語の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月11日

バベル語とは何か

レコード盤 バベルの語源

 第二言語の選択に悩んだときには迷わずバベル語を学ぶといい。 そうしなければ「結局、誰とも理解しあえなかった…」という現実に直面する羽目になるからだ。 せっかく心の友と分かり合う手段として異国の言葉を学ぼうというのに、そんなことでは苦労の割に合わない。 それは目的を穿(は)き違えることにならないだろうか。

 そもそもどんな言語を学ぼうと、それが地上の言語であるかぎり、言語の壁をいっそう困難なものにする心の壁がある。 そのため話せば話すほど理解に苦しむようになるのだ。 率直なところを言ってしまうと、どうやら国連がそれを証明してしまったように私にはおもえる。 それが紛れもない事実なのだ。

 神の門―それがバベルの語源である。 地上の混乱した言語でその神の門が開かれた例(ためし)はないことを覚えておくといい。 ただバベル語だけがその門に足を踏み入れる資格を与えてくれるのだ。

 このような視点で以下のテキストを読むなら、この物語に密(ひそ)かに埋め込まれた意味は、自分の思っていた通りのものではないことがはっきりするだろう。

バベルの語源
 あらゆる地で、同じ言語が使われ、同じ言葉が話されていた。 ときに東に移動した人々は、シンアルの地に平原を見つけて、そこに住みついた。 そして、「さあ、レンガを作って、よく焼こう」と言い合った。彼らは石の代りにレンガを、しっくいの代りに天然アスファルトを使いこなした。 彼らはまた「さあ、その頂きが天にも届くほどの塔を持つ町を建設しよう。そうやってわれわれは名を上げる。いかなる地にも散ってしまうことのないように」と言った。

 主がやってきて、人の子らがつくろうとしている町と塔を見て仰せられた。 「同じ言葉を話している人々がこうしたことをはじめるなら、やってやれないことは何もないだろう。 ならば、われらが行って、その言葉を乱してやる。 互いの言葉が通じなくなるように」。 こうして主は、地のあちこちに人々を散らされたので、人々は町づくりをとりやめた。

 そのため、この地はバベル(語源:神の門)と名づけられることになった。 主がそこで地上の言葉を乱し、地のあちこちに人々を散らされたからである。

 バベルの塔の物語―『旧約聖書』創世記 第11章1-9より

 さらに詳しく説明する必要があるだろうか? いま読んだテキストの行間にちらついていた文字がバベル語ということになる。 それは確かに馴じみのある言葉で本当の意味を伝えてくる。 けれどもその真意は、心の奥底で暗喩的に受け止めなければならず、脳みそで文字通り解釈するものではない。 そのため、誰もがそれを読んでいながら、誰もがそれを知らないということになってしまう。 とにかくバベル語というのはシンプルであるがゆえにややこしいものでもあるのだ。

レコード盤 預言者と救世主

 われわれ東アジアの仏教徒は古来よりバベル語を妙法蓮華経と呼んできた。 言い換えれば、東アジアに広まった大乗仏教はバベル語の読み方を伝えているのである。 そのうえ我々は難解なバベル語を解読する智慧を持つという菩薩の出現も待ちわびてきた。 いわば菩薩とは、キリスト教で言うところの救世主のようなものだ。

 一方、聖書は、救世主の登場に先立って、まず預言者たちが時代の転換期に出現してきたことを伝えている。 その預言者たちは詩や物語の形式で戒律や予言を説いた。 それは人々がそれまで信じていたものに疑問を投げかけるものだったのだけれど、なにしろバベル語で書かれていたものだから、救世主イエスの登場までその意味を知る者はほとんどいなかった。 これは当時、イエスがみずからの正体を明かしたときの言葉である。

 わたしは律法書や預言書を破り棄てるために来たのではない。それを完成するために来たのである。
 マタイによる福音書5章17節

 イエスは菩薩―バベル語の解読者だったのだ。 彼こそ預言者たちが予言していたすべてを変えられる人物だった。 預言者はバベル語で説き、救世主が解明する。 そのどちらが欠けても教えが完成することはなかった。

レコード盤 現代の預言者

 人間の馬鹿さ加減は今も昔も変わっていない。 1966年にジョン・レノンが以下の発言をしたとき、人類は起こってはならないことが起こったことを目撃することになった。

キリスト教は逝っちまう発言
 キリスト教は逝っちまうよ。 いつか衰えて消え去るだろう。 そんなことは、あれこれ論じる必要もないことだ。 僕の言ってることは正しいし、いつか正しいことが証明されるはずだ。 今の僕たちはキリストより人気がある。 ロックンロールとキリスト教のどっちが先に廃れるかは分からないけどね。 キリストはまったく正しいよ。 でも、その後に続いた人たちがオツムの弱い凡人だったんだ。 僕に言わせれば、キリスト教を受け入れられないものにしているのは、そいつらが教えをねじ曲げてるからさ。
 ジョン・レノン「キリスト発言(1966)」

 この当時、米国に平易なバベル語すら理解できないキリスト教徒がいたため、脅迫状が送りつけられる騒ぎとなり、ジョン・レノンは謝罪会見を開かなければならなくなった。 まるで磔刑である。

 そうですとも、司祭長と私たちの支配者は、彼を死の裁きに引き渡し、はりつけにしたのであります。
 ルカによる福音書24章20節

 こうした問題を引き起こす人たちは、ほとんど決まってバベル語を知覚する能力が欠落している。 皮肉なことに、聖書を誤読して教えをねじ曲げているのは、ほかならぬ敬虔(けいけん)なクリスチャンたちなのだ。 そういう輩(やから)は至るところにいるもので、厳密に言うと、彼らは単なる“キリスト教徒もどき”にすぎない。

 キリスト教は逝っちまうよ。 いつか衰えて消え去るだろう。 そんなことは、あれこれ論じる必要もないことだ。 僕の言ってることは正しいし、いつか正しいことが証明されるはずだ。
 ジョン・レノン「キリスト発言(1966)」

 ジョン・レノンの言うとおり、いまや純然たるキリスト教徒の命運はアウストラロピテクスやホモ・エレクトゥスのようなものであり、同様に、生粋(きっすい)の仏教徒もまた絶滅の危機に瀕(ひん)している。 そんな絶滅危惧種の仏教徒に言わせれば、バベル語で説かれているものなら何でも妙法蓮華経なのである。 ジョン・レノンだって同じように見ていたことだろう。 バベル語で書かれたものは何だって聖典になりうる。 たとえば、小説しかり、映画もしかり、漫画だって聖典だ。 もちろん、ロックンロールは言うまでもない。 そこに秘められた意味を読み解くことすらできないなら、聖書なんか読むだけ無駄である。 おそらく学者きどりで知識をせっせと積み上げていたファリサイ派の人々のように、たとえ預言者や救世主と思いがけない邂逅(かいこう)を果たしたとしても、反抗してしまうことは目に見えている。
 「どこの惑星から来たのかね、坊や?」
 預言者や救世主を見分けられるやつなんかいない。

 諸君には見えるだろうか。 ジョン・レノンの見ていたものが。 彼は預言者たちと同じ言葉を…すなわちバベル語を話すことができたようである。

レコード盤 イマジン

 イマジン…想像してごらん。

 人類は長い間、バベル語を知覚する能力を置き去りにしてきた。 その結果、愛と平和を実現するために色々なことをしてきたにもかかわらず、ことごとく的はずれだったことが明らかになっている。 でも、その能力を覚醒させる智慧を伝える預言者がすでに現れていたとしたら…

 さあ、神の門を叩くがいい!

 ことをかいつまんで話せば、私はバベル語の解読者であるからして、諸君をその門の入り口地点まで案内することができる。 どうだろう、もう一度、イマジンから始めてみようじゃないか。

バベル語の詩2 ~ 新詩篇より ~
 想像してごらん
 天国なんて概念がどこにもない世界を
 やってみれば簡単なことさ
 僕らの足下は地獄なんかじゃなくて
 僕らの頭上にはただ空が広がってる
 想像してごらん すべての人々が
 今日を生き抜こうとしてるって...

 想像してごらん
 国々なんて概念がどこにもない世界を
 そんなに難しくはないことさ
 何かのために殺したり死ぬことはない
 それから宗教なんかもない
 想像してごらん すべての人々が
 平和に生き抜こうとしてるって...

 君は僕を夢想家だと言うかもしれないね
 でも僕は一人ぼっちじゃない
 いつの日か 君が僕たちの仲間になる
 それが僕の希望さ そうやって
 世界はまるで一つみたいになるんだ

 ジョン・レノン『イマジン(1971)』より

 神は愛である。ゆえに神の門は愛の門である。 いつの日か、諸君はその門に足を踏み入れる。 それが私の希望だ。そうやって世界はまるで一つみたいになるのだ。 私は宗教に興味があるわけじゃない。 私の関心はただ諸君の愛を呼び覚ますことにある。

 愛こそがすべてだと今でも信じてる。 でも、ご存知の通り、ただそう言ってるだけでうまくいくわけでもないことは分かってるさ。 僕が言いたいのはね、僕たちみんなが愛に飢えてるって事実を信じざるをえないということなんだ。
 ジョン・レノン

John Lennon, Imagine(1971)
 収録アルバム 『Imagine(1971)』
 「いつの日か 君が僕たちの仲間になる」
 聞こえるかい?君の名前も呼ばれてるんだぜ。

参考資料 参考資料

 ザ・ビートルズ・クラブ『ビートルズの英語』(集英社インターナショナル, 2012)
 Bible Hub: https://biblehub.com/ (閲覧日2019年8月)

posted by ケンシロー氏 at 18:34| Comment(0) | バベル語の詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする